第21話 双澄海岸3

 数軒先の雑貨屋の前に設置された自動販売機で、それぞれペットボトル入りのお茶を買い、水分補給をした。流石に百三十円払えばそれなりの味だなと、少女はいつもの八十円の自動販売機を思い出した。

 しかしいくら水分補給をしても、南中を超え、一日で最も熱い時間を迎える真夏の日差しは耐え難い。八月五日の天気は良すぎるほどに晴れ渡り、店先に繋がれた柴犬も、地面に臥せって舌を出しながら腹を大きく動かしている。

「くそ暑い」

 彼女が気温を罵り続け、それが十回目に達すると、聞かされ続ける彼はどこかに入ろうかと提案した。

 時間が経つごとに増えていく観光客に混ざり、日陰を求めて土産物屋を練り歩く。

「これ、かけてみてよ」

 その中の一軒で、魚のぬいぐるみを眺めている少年を少女は呼んだ。

「眼鏡?」近寄ってくる彼は、彼女が突き出す眼鏡を見て訝しげな表情をする。「ぼく、目いいですよ」

「いいから、かけてよ」

「でも、必要……」

「いいの。つべこべ言うな」

 必要ないと言いかけた彼は、相変わらずの、そして最近では慣れ始めてしまった彼女の勝手に、渋々でも口を閉ざしてしまう。

 安っぽい銀縁眼鏡でも、レンズに触れないよう蔓を控えめに摘み、顔に近づける。

 そんな少年の顔を覗き込んで目を合わせた少女は咄嗟に口元を抑えたが、ふふっと笑い声を漏らしてしまった。

 別に彼の顔がおかしいわけではない。ただ普段眼鏡をかけない人が眼鏡をかけた時の違和感が、彼に対しては想像以上だったのだ。既に幾度も顔を合わせ普段の表情を知っていれば、人工的な付属品がくっついている姿は彼女にとって随分可笑しく思えた。

「……そんなに、おかしいですか」

 遂に腹を抱えてしまった少女に、少年の声は温度を失くしてしまう。

「だって、似合ってないんだもん」

 必死で抑えながらも、少女は喉の奥から声を上げて笑ってしまう。そう、似合っていない。思い知った。彼に眼鏡は似合わない。

「鏡見てみなよ、鏡。笑えるから」

「嫌です」

 彼の背後にある陳列棚に据えられている鏡を笑いながら指さすが、彼は何が何でも振り向こうとはしない。今回こそは決してつられて笑うまいと、表情さえも消してしまった。

「じゃあさ、へこんだ時に笑いたいから、それ買ってよ」

「絶対嫌だ」

「そんなら私が買ったげる」

「二度とかけない」

 彼らしくなく口を尖らせ、さっさと眼鏡を元の場所に戻してしまう。もったいない、と至極心のこもった声を少女は零したが、彼はそれから目を逸らし不満をあらわに背を向けてしまった。

 だがいつまでも不機嫌を持続せず、相手に悪意がなければすぐに感情を切り替えられるのが、少女が認める少年の良いところだった。

「これ、被ってください」

 果たして、仕返しの可能性も捨てきれなかったが、数分後に彼が手渡したのは変哲のないつばの広い白い帽子だった。

 普段はスカートさえ履かない少女は、こうした女の子らしいものに興味を持たず、むしろ敬遠さえしていた。女の子だから、という台詞がかけられそうなあれこれを無意識に排除してきた結果だった。

 だが、先ほど自分がいたずらした彼が勧めるのなら、無為にはできない。

 さっと髪を手ですくと、受け取ったそれを乗せる程度に軽くかぶってみる。

「似合ってますよ」

 少し大人しくなってしまった少女に、少年は嬉しそうに笑った。散々彼女に笑われた彼に、その台詞に裏を与える性根の悪さはなく、心底そう思って口にする。彼は恥ずかしがり屋のくせに、時折少女が軽口を叩けなくなる誉め言葉を躊躇いなく声に出すのだ。

 実際、少女にその帽子はよく似合っていた。爽やかな白色は、彼女の整った顔立ちを際出せつつも儚さを感じさせるのに十分で、彼に促されて鏡を覗き込む姿は涼やかに夏を彩る。

「……いらない」

 だが彼女はそっけない言葉とともにさっさと帽子を頭から下ろすと、棚に戻してしまった。

「嫌でした?」

「似合ってるとか言われたから」

 そう言い放つあまりの天邪鬼っぷりには、流石の少年も言葉をなくし、口もへの字に曲げてしまった。すました表情の彼女は、何でもない姿で棚の前を歩き去る。

 そして、心中で嘆息した。本当は、悪い気など全くしなかった。むしろ、嬉しくて、笑顔さえ零れてしまいそうだったのに。せっかく、似合ってるだなんて言ってくれたのに。せめてあんなすげない態度を取らず、黙っていても笑えばよかった。

 そうして心の奥で後悔を呟き続けていたが、すっかりひねくれてしまった性格では、やっぱり気になるという台詞を口にできなかった。対する少年は呆れ果ててしまったが、彼女がぬいぐるみを指さして会話を始めると、機嫌を直して返事をする。

 そうして軽くふざけ合い、店から通りに出ようと彼の後に続く彼女は、視線だけで店内を振り向いた。その先には、自分の失った素直さが形を取った、白く可愛らしい帽子。

 口でひねた文句を言いながらも笑顔を向ければ、きっと彼は鏡のように笑ってくれただろう。自分が笑いたいから買えなどと自分勝手な台詞を吐き、似合わない眼鏡を勧める相手にでも、少年は似合ってると言って褒めてくれたはずだ。

 自分の幼稚な意地っ張りを噛み締める少女が顔を向けると、一足先に店を出ていた少年が振り返った。

「少し、涼しくなってますよ」

 軒先に備えられた温度計は、店に入ったニ十分前よりも一度だけ低い気温を指している。それに気づいた彼は素晴らしい発見をしたと言わんばかりの顔を見せている。相手の未練になど微塵も気が付く気配のない彼の様子を目にすると、彼女の顔にも先ほど見せられなかった笑顔が浮かぶ。

 少しだけ、素直になろう。少しだけ。せめて、彼の前だけでも。

「行こ」

 駆け寄った少女が袖を引くと、伸びた前髪の向こうで少年は目を細めて笑った。

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