第20話 双澄海岸2
海岸に沿って水族館に至る、約一点五キロの南北へ伸びる街並みが、双澄海岸が観光名所たる所以だった。両脇に軒を連ねる店が景観を損ねない古く低い造りであるおかげで、歩行者天国の広い通りはその時代を知らない若者にも「古き良き時代」を思い起こさせた。雲一つない真っ青な空を背景に和やかに人々が行き交う今日の風景は、写真に収めればそのまま土産物屋のポストカードに並べそうだ。
夏休みに突入しているおかげか、二人が通りの始まりに添えられた看板の地図を見上げている傍を、幾人もの人々が横切っていく。中高生の友人グループに大学生風のカップル、初老の夫婦から、カメラを首に下げたおひとり様まで、多様性に富む観光客がそれぞれ楽しげに歩いていく。
「人、多いですね」
母親同士に子ども数人という夏休みらしいグループを見送る少年を、宙に浮かせる人差し指で地図を辿っていた少女は振り返った。
「水族館閉まってるのにね。こんなに人気だなんて思わなかった」
そう言って少女は、行こうと向こうを指さし、彼を促して歩き始める。
「でも、普通のとこでしょ。安心した?」
「安心した」
即答する背中を彼女が力強く叩くと、いたいと声を上げる彼は困った風な笑顔を向ける。
「全部任せておいて、言えないですけど……何も、予想つかなくて」
「予想って、どこ行くのかってこと」
「その、特に、女子高生って」
「まあ、あんたとは、生態が違うからね」
自分を棚に上げれば、今隣で息をする少年と教室に生息するクラスメイトは、まるで違う種の生き物だと少女は思う。属や科へと遡ればどこかで一致するだろうが、それには何百年、何千年、何万年必要になるのか。
「私も大概だけど、あんたにカラオケとかゲーセンとか似合わないでしょ。だから調べてやったんだから、感謝しろよ」
可愛げなど微塵も存在しない恩着せがましい彼女の台詞だが、それでも彼は怒らない。「してますよ」と苦笑いを浮かべて礼さえ口にする。
やはり彼は、自分の知る誰とも違う生き物だ。想像さえしなかった、果てしなく優しい存在だ。
だから少女も彼と同じように笑うことができる。
ソフトクリームを片手に、小学生が走り回る。古着屋の前で女子中学生の集団がはしゃいでいる。街並みに向けてカメラを構える初老の男性の脇を、壮年の女性が連れる小型犬が跳ねていく。
屋根瓦が日差しを眩しく反射する通りをきょろきょろと見回していた少年は、ふとズボンのポケットに手を入れると、通りを歩く少女を振り向いた。
「おなか、すいてないですか」
「おなか? 別に、大してすいてないよ。すいたの」
「そんなに」
「何で言い出した」
左利きの彼は、取り出した安っぽい腕時計の黒いベルトを右手首に巻き付けながら、文字盤を彼女に見せた。
「もう、お昼過ぎてるから」
時刻は十二時十分を過ぎている。すっかり太陽は頭の上に昇っており、通りには、店先に徐々に列が出来ているうどん屋や定食屋が目についた。
「なんか食べたいもんある?」それを見ながら彼女は問いかけるが、案の定彼は「なんでも……」と呟いた。
「言うと思った」
少し不満げな少年の鼻先に人差し指を向け、少女はいつものいたずらっぽい笑みをみせる。
「じゃあ、次に見えてきた屋台。取り合えずそれ食べようよ」
何が出ても文句は言うな。そんな無言の台詞が続くのに、彼は迷いながらも頷いた。
涼しげなかき氷や、冷えたジュースの紙コップを手にする人たちとすれ違いながら、やがて現れる十字路の右手に、赤い旗が見えてくる。
「あっつ」
一言漏らす少女に、少年も呟いた。
「有効ですか」
「もちろん」
「通り、逸れてますよ」
「見えてきたって言ったじゃん。この道とは言ってないし」
「なんで……」
ひねくれた女子高生の思考を理解することなどできず、無意味に我を張る彼女に、思わず少年は声をこぼした。
互いに小食である上に、それほど腹は空いていない。それでも折角だからと、ひとパックのたこ焼きを半分に分けることに決めた。
威勢の良い若い店員は、出来合いではなく今まさに焼き上がる分をトレーに分けてくれた。
半球の穴が規則正しく並ぶ変わった形状の鉄板は、音を立てて湯気を上げる。半球に材料を流し込み、タッパーに詰められたタコの破片をそれぞれ配ると。店員が千枚通しの先を隙間に差し入れ器用にひっくり返していく。慣れ切った手際の良さであっという間に見覚えのある丸いたこ焼きが並んでいく様子は、少女にとっては懐かしく、たこ焼きなど最後に見たのはいつだっけとつい考えてしまう。しかし、彼女以上に熱心にそれを見つめているのは、隣にいる少年だった。
「兄ちゃん、そんなに面白いか」
陽に焼けた陽気な店員の声が自分にかけられていると気づくと、彼は驚いて顔を上げ、かろうじて「はい……」と声を出す。根付いてしまった人付き合いへの苦手さは、少年が見知らぬ相手へ気の利いた回答を咄嗟に出せないよう、長年邪魔をし続けていた。
「面白いなら、いつでも代わるぞ。バイトが足りなくてな」
「いえ、あの……」
前髪に隠れてしまいそうになる姿は、数か月前に少女に見せていたものと同様で、それでも何とか踏みとどまろうと視線を泳がせている。彼が会話の端々に見せる思慮深さは、本人が軽口を叩くことを困難にし、過度な真面目さは瞬時の判断をひどく鈍らせるのだ。
「ここ、地元じゃなくて……ぼく、新聞配達のバイト、してるので……」
このへたくそ。しどろもどろな彼の様子に、隣にいる少女には可笑しさがこみ上げる。
「冗談に決まってるでしょ」
あははと彼女が笑い、おまけに店員まで愉快そうに笑い声をあげると、戸惑いをあらわにする彼はまた失敗したのかと口を引き結んでしまった。いつも馬鹿にする少女だけではなく初対面の人間にまでからかわれ、実に居心地悪く口の端を下げ、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ほんっとに、くそ真面目だね。そんなん生き辛くてしょうがないでしょ」
「……べつに、そこまで真面目じゃないです」
少年の様子に苦笑する店員から受け取ったパックを手に、通りのベンチを目指しながら少女が顔を覗き込もうとすると、彼はわざと明後日の方向に視線をやってしまう。
「嘘ばっか」
「嘘じゃないです」
「ほらほら、休憩。拗ねんなってば」
「拗ねてないし……」
明らかに拗ねてしまった少年をベンチに座らせ、少女はなおも笑いながらその隣に腰を下ろす。何故だかわからないが、こういった彼の姿を見ると、顔が笑ってしまうのを抑えられないのだ。
「はい、あんたの好きな半分こ。三つずつね。四つ目欲しけりゃ千円払いな」
「計算がおかしい……」このたこ焼きは、ひとパック四百円のはずだ。
彼女が片膝の上、左手で支える容器に彼は右手を添えた。それぞれ一本摘んだ爪楊枝を、少女は上段の右側、少年は下段の左側の一つに突き刺す。
天辺に穴を空けて焼きたてのたこ焼きを少女が冷ます横で、安易に一つを口に入れてしまった彼は、噛み潰す喉で小さく呻いた。
顔を背けて噎せながらも吐き出すに吐き出せず。いっそ全て飲み込んでしまおうとする姿がまたおかしい。
「動揺しすぎでしょ。さっき焼いてるの見たじゃん。落ち着きなよ」
そうして笑っていると、いつになく子どもっぽい失敗を繰り返す彼は、なんとか飲み込んだ喉元をさすって大きく安堵の息をついた。どうやら火傷はせずに済んだらしい。
「美味しい?」
「美味しいですよ」彼女に問いかけられた彼は、表情を緩めて笑った。
苦しんでたくせに。そう思うが、相変わらず彼の台詞に嘘は見えず、表情は強がりにも見えない。
「今まで食べた中で、いちばん」そんなことまで言う。
「そんなに。最後に食べたのいつよ」
「覚えてないです」
「ばか」
それならばと、少女は冷ましていた一つに改めて爪楊枝を突き刺し、彼の目の前にずいと突き出した。咄嗟のことに目を丸くする彼の口元に無理矢理押し付け、口の中に押し込んでやる。
「こっちと、どっちが美味しい?」
引き抜いた爪楊枝を指に挟んだまま、にこりと笑ってみせる。
食べさせられた一つを咀嚼する彼は、笑顔を失い難しそうな顔さえ見せる。飲み込んで間を空けるその表情は、見た目には愛想のない無表情だとさえとられるだろう。だが、彼女は知っていた。
「……こっち」
こうして短い台詞を呟く様子は、コミュニケーションの苦手な彼が照れている、そのくせ懸命にそれを隠している不器用な姿。その証拠に、こちらが笑えば彼らしい穏やかさで笑ってくれる。これなら、千円払わずとも四つ目以降を食べさせやってもいいかな。そんなことさえ、少女は思ってしまう。
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