第25話 遠い花火2

 バスに乗り合わせる数人の乗客も、彼と同様、窓側へ視線をやり感嘆の息をつく。

 少女の耳にも、どこか懐かしい記憶を思い起こさせる音が聞こえた。空気の弾ける音は、一度。そして二度、三度と連なっていく。窓の向こう側に目をやると、すっかり陽の沈んだ海の方で光が瞬いていた。

「今日、花火だったんだ」

 随分遠くなった水族館のある方角。そこでは海から夜空へ光が駆け上がっていた。夜空を軽やかに蹴り上げ、白く眩しい光が昇っていったかと思うと、ぱっと大きな光が咲く。赤。青。黄色。美しい大輪の花火が、月や星に負けない光で暗い夜空を彩っていく。あんなに眩しいのに、その音はちっともうるさくない。いつまでだって見ていたい、瞬きの瞬間さえ惜しくなる、静かで鮮やかな炎の華。

「綺麗ですね」

 背筋を伸ばし窓の外を見つめる少年の瞳にも、同じ色の光が宿る。大きく開かれた深海の瞳に、夜空に輝く花火が映る。花が咲いた直後、どん、どんと、窓ガラスを透かした音が腹の奥で轟き、海岸で同じものを見上げる人々の歓声すらすぐそばから聞こえる気がする。

 水族館の閉まっている日であるのに、なぜあれほど多くの人が訪れていたのか、帰りのバスがこれほど空いているのか、ようやく合点がいった。

「花火だなんて、知らなかった。だからあんなに人が多かったんだ。あーあ、あとちょっと待ってたら近くで見られたのに」

「そう、都合よくはいきませんよ」心底残念そうな彼女の声に、少年が返す。

「つまんねーこと言うな」

「いた」

 つまらない台詞を吐く頬を少女が軽くつまむと、彼は頬を歪ませたままいつもの困った笑顔を浮かべた。

 その間にも、海岸沿いの道を走るバスは、花火からぐんぐんと距離を開けていく。

「もっと近くで、見たかったな」

「来年も、きっとやりますよ」

「そうだね。あんなに人もいるんだし」

 暗い水面に、色とりどりの華が咲く。夜空を照らし、人々の瞳を輝かせ、咲いては散りゆく一瞬のきらめきは静かな海に反射して消えていく。夏の夜、ほんの一夜、誰もが胸をときめかせる美しい瞬間。

 きっと来年も、同じ光景がこの海岸には広がっている。双澄海岸。熱いたこ焼きが美味しくて、竹藪をくぐった先の神社は静かで、お土産が充実していて、アイスキャンデーが冷たくて。

 何も変わらない。「ねえ」呼びかける声でさえ、変わらないはずなのに。

「卒業したら、本当に出て行っちゃうの」

 瞳に花火を映しながら窓枠に頬杖をつく少女の隣で、少年は軽く目を伏せた。

「うん」

 二人にしか聞こえない声は、変わらないのに。

「どこ行くの」

「どこか、遠いところ」

「キザなこと言いやがって」

「少なくとも、家は出ます。そうしたら、あの街にだって、いる必要もない」

 バスはゆっくりとカーブを描き、花火は乾いた山肌に消えていく。どん。どん。打ちあがるその音ですら、次第に遠ざかっていく。「そんなこと言うんだ」彼女の呟きも、ぽつりと落ちる。

「そう思ってたんです」

 腕を下ろした彼女が振り向くと、彼も目を合わせた。月と星の光が差し込む車内で、彼女の前で涙を流したことのない少年の顔が、今にも泣き出しそうなものに見える。

「あなたのせいです。ずっと決めてたのに。迷いも躊躇いも、一切なかったはずなのに」

 油断をすれば逃してしまいそうなほど微かに震える声で、それでも彼は涙を流すことなく、深い瞳に少女を映した。

「ぼくはもう、何も手にしないように、生きてきたはずだったのに」

 濡れているような、美しく輝く黒の中に自分の姿を見つけ、もう何も言わない少年に少女も言葉を返さなかった。

 少年の右手に左手を重ね、ただ、握りしめた。

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