第7話 不自由

 近隣では進学校と名立たる偏差値高めの高校も、午後一時の昼休みは若々しい喧騒に包まれていた。

 彼らのざわめきを完璧な他人事としながら、少女は二階の教室に向かい、階段を上る。下りてきた誰かが、自分の名字を呼ぶのに思わず振り向いた。

「おはよう!」

 午後一時がおはようの時間か。ぽつんと思ったが、少女は軽く声を返す。

「……おはよ」

 最低限の全く気のない返事だが、クラスメイトの男子はそれを気にする風などなく、友人たちと連れ立ってどこかへ去っていった。幾度も挨拶をされた後、近藤という苗字をようやく記憶の隅に転がした。上級生の引退と共に、じきにサッカー部の部長に就任するという噂を、クラスの女子がこそこそ騒いでいるのを耳にしたことがある。まあ確かに、押しつけがましいほど明るく挨拶をしやがる、爽やかを絵にかいたような男だ。それ以上も以下もない評価に憂鬱を引きつれて、彼女は教室の扉を開けた。


 少女は人気者だった。

 それは彼女が望まずとも得てしまうもので、名前だけが独り歩きする、至極迷惑なものだった。

 平均よりも数センチ高いすらりとした痩身は、体育の時間に走っている最中には特に鬱陶しい視線を浴びた。無遠慮なやつがレンズで追いかけていることも、彼女は知っていた。かといってそいつのスマートフォンを叩き潰すのも面倒なので、「いつか殺す」とだけ思ってやった。

 女子高生らしく周囲とつるむ真似をせず、いつも背筋を伸ばして一人で歩く彼女は、いわゆる孤高の美少女だった。どこか冷めた態度に、ごくまれに見せる笑顔は周りの同級生よりも随分大人びていて、彼女に惹かれる男子生徒は数えきれないほど存在した。彼らの多くは目線だけで彼女を追い、手を出さない自分は無害だと信じていたが、一方で少女はいい加減にうんざりしていた。

 授業中、移動中、休み時間。いつだって、足や胸元、横顔を舐めていくやつらの視線を感じた。学年を重ねるごとに、そういった気に食わない連中の割合は増えていき、気づかれていないと本人が妄信している盗撮も、容易に見抜けるほど場数を重ねた。

 これなら、あの近藤とかいう男みたいに堂々と声をかけ、たまに面白くもない話を吹っかけてくる連中のほうが幾分マシだと思ったが、彼らも隙あらば顔を覗き込み、遠慮を知らず踏み込もうとしてくるのだ。

 少女にとって、同年代の男とは、そのような存在だった。


 かといって、代わりに女子生徒が彼女に近寄ってくることもなかった。

 十二分に愛らしい顔立ちをした彼女に始めこそ羨望の眼差しを向けるが、その隙のなさを知ると次第に歪んだ侮蔑と嫉妬心を抱くのだ。

 見事な容姿だけではなく成績も上位にくい込み、体育も人並み以上にやり遂げる。そんな少女は社交性を見せず、物言いもどこか冷たさを感じさせるのに、男子たちの関心を一心に捕らえているのだ。

 そうして、仕方がなく一人でいるのではなく、選んで一人でいるような少女を、周囲の女子生徒の多くはいけ好かない存在だと妬んだ。だが、その態度をあからさまにさらす度胸は彼女たちにはなく、表面上はにこやかに挨拶をし、教室の後部でのみ汚れた本音を語り合った。

うわべの挨拶に乾いた返事をしながら、少女は彼女たちが自分を見張っていることを知っていた。大きな失敗の断片を、男子たちを失望させる失言を、繕った態度にいつか出る綻びを、躍起になって探し求める。まるでハイエナだ。

 少女にとって、同年代の女とは、そんな存在だった。


 だから彼女にとって学校とは、ちっとも面白い場所ではなかった。ただ将来に必要だから通っているだけ。必要性がなければ、こんなところには近づきたくもない。

 放課後、まとわりつく全てに飽き飽きする彼女は、午後二時間分の教材を鞄にしまい、立ち上がった。課題を提出しに行っていたおかげで少し遅くなり、教室には女子同士のグループがニ、三か所に点在するだけだった。

「ねえねえ、桜庭さん」

 面倒な人間関係に対するほんの少しの倫理観、辛うじての妥協が無視をしてはいけないと言ったから、少女はかけられた声の方を向いた。

 声をかけた中心の女子生徒が正面に、その友人二人は両脇にと、彼女たちはいそいそと机を三方向から取り囲んでくる。

 両脇にいる二人の名前を、少女はまだ覚えていなかった。クラスの女子AとB。Aはいやに俯いていて、Bは勝気そうな顔をしている。その程度に分別できれば十分だろう。クラスメイトに興味を持たない少女が一通りの名前を覚えるには約半年かかり、顔と名前が一致する頃には再びクラスは変わってしまうのだった。

 だが、中心にいるのは栗本幸子。昨年も同じクラスだったためと、出席番号が前後で並んでしまう関係と、あちこちで誰かがあだ名を呼んでいるおかげで、その名を覚えてしまった。さっちん、さっちん。幸子でさっちんか、随分ひねりがないなと思ったのを覚えている。

「あのね、桜庭さん、確認したいことがあるんだけど」

 そう言って栗本幸子はきょろきょろとあたりを確認する。二組ほど残っているカースト低下層のグループの存在は、問題には値しないらしい。

「いいよ、さっちん……」消え入りそうな声でAが言う。

「よくないよ」栗本幸子が、正義感たっぷりの表情をして言った。

 なにも口を挟まないまま始まる茶番に、少女は若干の苛立ちを覚える。

「なに」

「単刀直入に言うよ。井上君のこと、どう思ってんの」

 それが誰なのか瞬時に思い出せない少女の様子は、女子生徒たちにとって鼻につくものだった。「サッカー部の」そう付け足されて、ようやく少女は思い出した。挨拶のうるさいやつだ。

「はっきりさせてあげなよ」

「はっきりって、なにが」

「だから、好きか嫌いか、言ってあげなよってこと」

 顔をしかめる相手に、少女も訝しげな表情を返す。

「私が、井上に?」

 あの男子生徒が自分に多少の気を持っていることぐらい、少女はとっくに気が付いていた。だがそこに自分の責められる理由があるとは思えなかった。

「別に、好きでも嫌いでもないのに、言うことなんてないよ」

 するとAはいっそう顔をゆがめる。それを慰めるように栗本幸子が肩を抱いて頭を撫で、Bはこれ見よがしに眉根を寄せた。

「それなら、なおさら言ってあげなよ。井上くんだって不憫だし、みっちーも可哀想じゃんか」

 Bの言葉からAのあだ名を知る。道子とでもいう名前だったか。

「何も言ってないうちから嫌いだなんて言われる方が、不憫じゃないの」

 毎朝挨拶をし、たまに記憶にさえ残らない会話をする相手に、別に好きではないとしてもそれを意識した言葉を吐く理由が見つからない。そんな自意識過剰な真似などしたくもない。

「桜庭さんもメッセージ呼んだでしょ。みっちー、ほんとに勇気出したのに」そうして栗本幸子が睨んでくる。「既読の数、ちゃんと人数分あったんだから」

 ようやく思い出すとともに、自分が送ったメッセージを何人が目にしたのか分かってしまうSNSアプリケーションのシステムに、ほとほと嫌気がさした。そうして、文面ではクラスの女子生徒全員に余計な心情をさらけ出すくせに、現実ではめそめそと下を向いている本名さえ知らない少女Aに更に苛立ってしまう。

「桜庭さん、頭いいんならさあ、そんぐらい察してよ」

 手首にカラフルなシュシュをつけた手で同級生の頭を撫でる気の強い相手へ、少女は顔を向けた。いつの間にか灯ってしまった火が、苛立ちを燃料に更に火力を上げようとしている。相手の手首で揺れるシュシュの鮮やかさでさえ、今は火力をかさましする油たり得てしまう。

「クラスのみんなに言うのって、ほんっとに勇気いるんだしさあ。だから協力してって言ったじゃん。なにも返事しないなら、分かったってことでしょ」

 せめて本人が言うならまだ同情の余地は無きにしも非ずと検討するが、当の女子生徒Aは目に涙をためているだけだ。

「その協力が、私が井上に脈なしだって、わざわざ伝えるってこと?」

 馬鹿らしい。呆れ果て、ないはずの愛想もすっかり尽きてからからだ。なのに何故、向こうまで呆れた顔をしているのか。

「そうかもしれないけどさあ。察してよ。みっちーは優しいから、そこまで言えないのに」

「もういいよ……さっちん、いいってば」いいと言うくせに、今にも泣きそうな顔をしている。

 これは誰がどう見ても、私がこいつをいじめてるんだな。

 いけないと分かっているが、抑える前に炎は強火に至っていく。次第に、いけないと戒めるべき理由もわからなくなってくる。

「なにそれ。見ちゃったら、そこまでしなきゃなんないの。まだ私は何も言われてないんだから、好きならさっさと言っちゃえばいいのに」

 すると信じられないといった風にAは顔をくしゃりと歪め、なぜだか代弁者だけが声を荒げる。

「それが難しいから協力してって言ってるのに。桜庭さんもそれぐらい考えてよ」

 何も言わない相手に、何を忖度しろというんだ。どんな義理があって、これを見てしまった人間は、自分の気持ちを理解して尊重しやがれとほざくんだ。質が悪すぎる。

 だから少女ははっきりと彼女たちを見て言い放った。

「自分では何にも行動しないくせに、見たやつは協力しろって勝手に押し付けてさ、それって迷惑だとは思わないの」

 ああ、ついにAが泣き出した。だがその押しつけがましい涙は、少女の強火へ余計に油を注ぐだけだった。

「だから、そこまで言ってないじゃんか。少しでいいから、気持ち考えてあげてって言ってるだけなのに。桜庭さんもちょっとぐらい協力してよ」

「考えろだの協力しろだのって、方法があるならせめて自分で言いに来なよ。自分じゃ文句ひとつ言えないくせにさ、協力内容は自分で察して動けだなんて、尋常じゃなく自分勝手じゃない。世の中舐めすぎでしょ」

 その言葉に、栗本幸子含む三人の同級生は一瞬絶句したが、道理よりも青春を愛する中心の少女は、勢い込んで口を開こうとした。

 だが、その口は結局何も言わずに閉じられた。教室の外、廊下をたどって、賑やかな男子生徒の集団が近づいてきたためだった。

 悪い口を吐けなくなった相手からさっさと目線を逸らし、少女は軽い鞄を肩にかけると三人に背を向けた。

 人でなし、といういわれのない低い暴言が一言だけ地を這うのには、決して振り返らなかった。

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