第6話 リュウグウノツカイ3

 ようやく眠りにつき、再度目を覚ました時刻には、とうに陽は高く昇っていた。締め切ったカーテンの隙間から差し込む光にぼんやりとした頭を振りながら、少女は通学鞄を引きずって自室のドアを開けた。

 このまま一日サボってしまおうかと思ったが、折角終わらせた課題が無為に消えてしまうのももったいない。提出を目的に午後からだけでも出席するかと、面白くもない一日の計画を立てる。上役出勤だな。そう思った端でトーストが焼けた。

 母はとっくに仕事に出ており、午前九時半のリビングは静かだ。カップ一杯のコーンスープ、甘さ控えめのコーヒーを並べ、焼けたばかりのトーストにマーガリンを塗りたくりながら、スイッチを入れたテレビ画面を眺めた。

 黄色の着ぐるみが踊り狂い、手作り玩具が組み立てられ、粘土の青虫が枝の上を這いずる。そんな幼児向け番組を繰った先で、ようやくニュース番組にたどり着いた。

 億単位の政治資金の使い込み、どこかの街にいる逃亡中の通り魔、今週のヒットチャート、年々増えていくいじめの件数。今日のお天気は、そして気になる星座占いの行方は。

 うるさい。口に出さずにぼやいて、少女はテレビ画面を真っ黒に塗りつぶした。一貫性がないにもほどがある。このトーストに無秩序に塗られたマーガリンみたいに、随分とムラがある。

 サクサクとトーストを咀嚼しながら、ふと思いついて新聞を手元に寄せた。明け方にテーブルの隅に放ってから母も目にしなかったらしい。もしかすると今朝の出来事は寝つきの悪い夢であった可能性も否めないため、四十面ある新聞を後ろからめくった。

 どうやら、今朝聞いた台詞は現実のものだったようだ。三十七面の上半分、更に右半分も満たない大きさの枠には、確かに本の紹介文がある。枠内には、リュウグウノツカイとやらが海を泳いでいる写真。この魚の出現は、地震の前兆だともいわれているらしい。

 記事を読み終わり、新聞を二つに畳んだ。

 面白くもなんともない。わざわざ思いながら指先のパンくずを払い、テーブルの端にあるスマートフォンを操作した。画面の中のアイコンを選択し、下から生えてきたキーボードをすいすいと指でなぞる。


 深海魚 リュウグウノツカイ


 現れた膨大な検索結果の中から、トップに躍り出た一文を叩く。すると至極丁寧な説明やカラーの写真が流れてきた。

 太刀魚に似た細長い体に、鮮やかな赤いヒレが背をなぞり、頭側の先端は特にたてがみの様に長く伸びている。神秘的かもしれないが、決して可愛いものではない。世界最長の硬骨魚。大きなもので十一メートルの長さになるという。

 冷めたスープを飲み干しながら、読むやつの気が知れないと適当に検索ページをめくる。

 世間のどこに隠れているのか、深海魚好きがまとめたサイトは意外にも充実していた。

 ラブカとは、数時間前に聞いた気がする。切れ込みのようなエラを持つ、なんとも恐ろしい顔つきの生きた化石は、サメの一種らしい大きな口を開けている。いかにも、男の子が好きそうな生き物だ。


 ――なんだ。あいつもやっぱり、子どもなんじゃないか。


 毎朝機械の様に同じ時刻にやって来ては寸分違わぬ動作で去っていく、暗い瞳を伏せたままの少年にも、やはり好きなものはあるのだ。当然のことを考えながら、今朝見たばかりの、珍しくこちらを向いた瞳と、下に落ちない声を思い出す。大人ぶってるくせにと、まんざらでもない気分で悪態をつく。

 つらつらと流れる名前一覧の中には、あの時彼が紡いだ単語と一致するものもいくつか含まれていた。

 デメニギス。クシクラゲ。ミツクリザメ。ブロブフィッシュ。

 写真に写る彼らはどれも見覚えのない形態で、不思議に光ったり口が飛び出たり、更には頭が透明だったり。こんなのが泳いでいるなんて、深海とは地球の中心に近いくせに、まるでこの世とは別世界のようだ。

 顔を上げると、テレビの頭上にかかっている時計は、いつの間にか一時間の経過を示していた。これから食器を洗い、遅めの洗濯をすれば、午後の授業には間に合ってしまう。

 機器をホーム画面に戻すと、彼女は大きくため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る