※※



 結局その後も白ウサギの娘を見つけることはできなかった。彼女の方が会場から姿を消してしまったのか、群がる令嬢が壁になって探すことができなかっただけなのかは分からない。だがあの目立つ容姿をカイトが必死に探したのに見つからなかった辺りから考えると、彼女はすでにここから去ったと考えた方が筋が通るだろう。


 そう考えた瞬間、カイトの心をさいなんだのは、苦しいほどの後悔だった。


 ──なぜあの時、彼女を逃してしまったのか。


 距離を取る彼女を強引に引き寄せていれば。せめて愛称ではなくきちんとフルネームを聞き出せていれば。そうすればまだ彼女とともにいられた道も、再び彼女を探し出す手立てもあったかもしれないのに。


 夜がふけるまで舞踏会は延々と続き、カイトは数え切れない相手とワルツを踊った。


 だがカイトはその誰の顔も覚えていない。夜がふけるごとに後悔は心をむしばみ、あの娘の柔らかな笑顔ばかりが脳裏をよぎる。


 カイトが『夜風に当たりたい』と口実を作り、追従してきた侍従も令嬢達も撒いてきたのは、そんな思いが胸を裂きそうなほどに膨らんでしまったからだった。


 独りになりたい。


 そう望んで王家の人間しか立ち入ることが許されない庭に入ったのに、なぜか今宵はそこでも人の気配が待ち受けている。


「良い月夜ですな、殿下」


 バラのつたが絡まる東屋あずまやには先客の姿があった。紳士が二人と令嬢が一人。庭に入ってきたカイトが不愉快を隠していないというのに、彼らは己の非礼を詫びることもなければ礼を示してくることもない。手にグラスを持った彼らは勝手にワインを傾け続けている。


「……ここは王家の人間しか立ち入ることが許されない庭であるはずだが?」

「これはこれは失礼を。レンデル公のお招きでしたものですから」


 レンデル公。


 その名前にカイトは東屋の奥に座った紳士を見遣った。起きているのかいないのかも分からない老紳士は、カイトに目をやることもなくチビチビと自分の手にあるグラスからワインをすすっている。


 確かにレンデル公ドーマスはカイトの遠い親戚にあたる。広く捉えれば王家の人間と言えなくもない。だが己から『王家の人間だ』と主張して許しもなくこの庭に立ち入るのはいささか厚顔が過ぎる。


「カイト殿下、父と叔父の無礼をお詫びいたしますわ」


 カイトは不機嫌も露わにレンデルを糾弾しようと口を開く。


 だがカイトが何かを口にするよりも両手にワイングラスを持った令嬢がスルリと近寄ってくる方が早かった。咲き誇るバラよりも芳醇なワインよりも強く香る甘ったるい香水の

においにカイトはさらに眉をしかめる。


「御休憩にいらっしゃったんですよね? 踊り疲れて喉が乾いていらっしゃることでしょう。このワインを飲んで喉を潤してくださいませ」


 そんなカイトの不機嫌に気付かない令嬢は、蒸気した顔でうっとりとカイトを見つめたまま片手のワイングラスを押し付けてきた。払い除けたかったが娘の手の力はカイトが思っていた以上に強い。カイトか気付いた時には強引にワイングラスを手に握らされていた。


「わたくしの父の領地であるハッター領は、ワインの特産地ですの」


 野ウサギのような髪をした娘は、うっとりと微笑んだまま目線の高さまでワイングラスを掲げる。月光を受けたワインは、まるでルビーのような輝きを纏っていた。


「今宵の邂逅に」


 娘の音頭に合わせて、東屋に座ったままの二人がワインを煽る。


 ──あの娘の瞳は、もっと明るい紅だったな。


 一瞬、そんな感傷が胸中をよぎる。


 切なさと、何ひとつ己の意志では自由にならない鬱屈。そんな全てをあの娘を連想させる紅で飲み干したい衝動にかられたカイトは、何もかもを投げ捨てるかのようにワインの縁へ唇を寄せる。


 その瞬間、深閑とした空気を切り裂くような鋭さで、城の尖塔に吊るされた鐘が鳴り響いた。いきなり響いた大音声にカイトのみならず目の前の令嬢も、東屋にいた二人もビクリと肩を震わせる。


 深夜12時を告げる鐘。


 舞踏会の幕引きを知らせる鐘だ。


『ねぇ、アリスのお茶会は何時から始まると思う?』


 その瞬間、脳裏に蘇った声があった。


 ──今宵のお茶会は深夜12時。鐘が鳴れば、サンドリヨンは去らなければならない。


 王家の庭に集った面々。城の鐘は12時を告げた。


 ──今宵のお茶会のメンバーは、狂った帽子屋に発情期の野ウサギ、眠っているフリをしたヤマネ。


 ワイングラスを手にしたカイトを見つめるハッター伯の目ににじむ狂気。野ウサギ色の髪をした娘は劣情にドロリと表情をとろかしている。そしてレンデル公はそんな二人とカイトを起きているのか分からないくらい細い瞳の向こうから冷たく観察している。


 ──ねぇ、アリス。お茶会に似合わないワインは決して飲まないで。


 カイトの手からワイングラスが滑り落ちた。月光とともにワイングラスに注がれていた赤い狂気は、形を失って崩れていく。


 ──飲まずにいてくれれば、血濡れた白ウサギが必ずアリスを助けに行くわ。


「……どうして、わたくしの愛を受け入れてくださらないの?」


 ここにいてはいけない。


 ジリッとした焦りに押されるようにカイトは一歩後ろに足を引く。そんなカイトの変化に気付いているはずなのに、三人が三人とも表情を変えなかった。


「ねぇ、カイト様。一緒に飲んでくださいますわよね? 一緒に……永遠に一緒に……」

「そうだね、ミリア。この特別なワインはカイト殿下に飲んでもらわなければ」

「……さすればわしが、次期国王に」


 ──毒入りのワイン。


 ザッと血の気が下がる。とっさに入口に向かって駆け出そうとしたが、門が閉められる重たい音に足は止められた。この庭は舞踏会の会場になったホールとは距離がある。カイトがここにいることは誰も知らないだろうし、声を上げても誰にも届かない。声が届く範囲にいるのは敵ばかりだ。その証拠に闇からにじみ出すようにレンデル公の私兵が姿を現す。


「カイト殿下は、ひそかに相思相愛の仲であったハッター伯が娘、ミリア・ハッターと毒入りワインで無理心中。そう発表されるように、もう手配は済んでいる」


 狂気のままに筋書きを明かすハッターを背後に従えて、己のグラスを持ち直した娘が夢見るような笑みを浮かべてカイトに迫る。娘が前に出た分カイトの足は下がっていくが、このままでは壁際に追い詰められるだけだ。


 ──『傀儡の王子』と呼ばれ、好き勝手されて、最後は会ったこともない娘と無理心中、か……


 一体自分の人生はなんだったのか。苛立ちは一瞬で諦観に化ける。後ろに下がるカイトの足が止まり、それを見た娘が笑みを深め、ワイングラスをカイトの唇にあてがおうと娘の腕が伸び……


 ……その瞬間、パンッとワイングラスが弾けた。ただのガラス片に還ったワイングラスはキラキラと月光を弾きながら娘の顔面に降り注ぐ。


「ギャァァァアアアアアアアアッ!!」


 ハッとカイトが我に返った時には両手で顔を押さえた娘が汚い絶叫を上げていた。目に破片が突き刺さったのか、きつく瞼が閉じられた娘の両目からは血が流れ出ている。


「なんっ、で……っ!!」


 カイトは慌てて後ろへ下がる。向こうにとっても予想外の出来事だったのか、ハッターとレンデルが揃って腰を浮かせているのが視界の端に映った。


「なんでなんでなんでっ!!」


 そちらに注意が行っていたせいで、一瞬判断が遅れた。


 ヒュッという風切り音。左胸に走った衝撃に視線を落とせば、飛び込んできた娘が己の髪から引き抜いた飾りの切っ先をカイトの胸に突き立てている。


「私がっ!! 私だけがカイト様を思っていてっ」


 その先に何と言葉が続く予定だったのかは分からない。


 娘が全てを言い終わるよりも、娘が頭から朱色の霧を噴きながら不自然に横へ吹っ飛ぶ方が早かったから。


 遅れて、カイトは気付く。


 娘がカイトの胸に髪飾りを突き立てた直後に、場違いな音が響いていたことに。


 ──銃声。


 舞踏会の終わりを告げたのは12時を知らせる鐘の大音声だった。


 ならば小さくも鋭い銃声は、このイカれたお茶会を終わらせるためのものだったのか。


「お茶会の終幕をお知らせに参りましたわ、アリス」


 そんなカイトの考えを肯定するかのように、柔らかな声が聞こえた。カイトも、残された二人も、庭を取り囲む私兵達も、誰もが操られているかのように一斉に声の方へ顔を向ける。


 そこに立っていたのは、酷く美しい娘だった。


 真っ白な髪に真っ赤な瞳。雪を思わせる純白のドレスは、月光を浴びて先程までとは違う艶をまとっている。その手にはたおやかな立ち姿には似つかない無骨な拳銃。筒先からたなびく硝煙が、なぜか彼女の元にあると幻想的にさえ思えた。


 白ウサギの娘。


 カイトの心をたった一瞬で埋め尽くした彼女は、柔らかな笑みにわずかに別の感情を混ぜて、スッと拳銃を握っていない方の手を上げた。


「お茶会の終わりとともに、アリスは悪夢からも覚める」


 そしてヒュッと、何かを命ずるかのように、上げられた手は下ろされる。


「悪夢には、消えてもらわなければ」


 その瞬間、王家の庭に響いたのは雷にも似た銃声だった。何発、何百発もの銃弾が一斉に降り注ぎ、私兵も、ハッターも、レンデルも、咲き誇るバラも、降り注ぐ月光さえも切り裂いていく。


「……っ!?」


 一方的な粛清は、ほんの数秒で終わった。


 たった数秒で、生きている人間はカイトと白ウサギの娘だけになっていた。発情期の野ウサギも、狂った帽子屋も、眠ったフリをしていたヤマネも、お茶会にそぐわないワインも、トランプ兵も、バラの花も。何もかもが、殺された。


 死の静寂で満たされた庭の中で、呆然と佇んだカイトは、白ウサギの娘と相対する。


 そんなカイトを見つめた娘の珊瑚の唇が何か言葉を紡ぎかけ、……何も言わないまま引き結ばれ、最後に先程と変わらない柔らかな笑みがかれた。


「ご無事で何よりでございます、殿下。こちらの到着が遅くなったせいで、大切な懐中時計を傷付けてしまったこと、大変申し訳なく思います」

「……っ!!」


 深く、優雅に膝を折った娘は、見惚れるほどに美しい所作でカイトに頭を垂れた。


 その言葉に、今度こそカイトは懐かしい名前を口にする。


「リディア……なのか……?」


 カイトから娘の表情を伺うことはできない。


 ただ、その細い肩が微かに揺れた。


「俺が左胸の内ポケットにいつも懐中時計を入れていることを知っているのは、レディアだけだ。父上や母上でさえ知らない……。知っているのは、俺と揃いの時計を持っているリディアだけだ……っ!!」


 カイトの指が、左胸の時計に触れる。


 上蓋には白ウサギ。文字盤にはトランプの意匠。『不思議の国のアリス』をモチーフに作られた時計は特注品で、この世にたったふたつしかない。


 ひとつはカイトが。もうひとつはカイトの許嫁が。


 許嫁が馬車の滑落事故で死んだ時に、片割れの時計も一緒に奈落に落ちた。だからこの時計はもう、この世界にひとつしかないはずだった。


 だが、娘の首から下がるあの金の鎖は。カイトが持つ懐中時計に繋がるのと同じ、あの金の鎖は。


「リディア……!!」


 カイトは今度こそ己の意志で一歩を踏み出す。


 だが白ウサギの娘は、またスルリと後ろへ下がった。まるでスポットライトが当たる舞台の上から身を引くかのように。


「リディア!!」

「リディア・ワンドルは死にました。10年前の、あの馬車滑落事故で」


 スルリと立ち上がった娘は、拳銃ごと握りしめた両手を胸に当てた。


 まるで、祈るように。首から下げた懐中時計にすがるように。


「今ここにいるのは、ただの灰被りサンドリヨン。暗殺された両親を弔った灰にまみれ、その上から仇の灰に塗れ……今は屠った者の灰に塗れ続ける、ただの暗殺者」


 白い髪が、夜風に揺れた。真っ直ぐにカイトを見上げる紅の瞳が、抑えきれない感情に潤む。


「アリスに捕まえてもらうには、私の毛皮は血と灰で汚れすぎた。だけど、……だけど」


 そっと、娘の手が豊かな胸に添えられた。きっとその下に隠れているのであろう、世界にたった一対しかない懐中時計に触れるために。


「白ウサギになれないサンドリヨンは、ずっとアリスを見守っているから」


 その仕草は、何かあるたびに左胸の懐中時計を求めて指をさまよわせるカイトの仕草によく似ていた。


「リディア……っ!!」


 今度こそ娘を逃すまいとカイトは地面を蹴る。だが不自然に立ち込めた霧が娘の姿を覆い隠す方が早い。勘を頼みに飛び込んだ先はすでにもぬけの殻だった。


「リディア!! 俺は諦めないっ!! 必ず白ウサギお前に追いついて捕まえてみせるっ!!」


 だから、腹の底から叫んだ。生まれてこの方、こんなに叫んだことなどないと思えるほどの声で。霧の向こうのどこかにいるはずである、最愛の想い人に向かって。


「止まった針を、今度は俺から動かしてみせるからなっ!! リディア……っ!!」







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