アリスとサンドリヨン

安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売!



 アリス、アリス、時計を止めて


 狂ったお茶会が始まる前に




  ※  ※  ※




『ねぇ、アリスのお茶会は何時から始まると思う?』


 懐かしい夢を見たのは、この舞踏会に気が乗っていないせいなのだろうか。


「殿下、お時間です」


 控えの間の椅子でまどろんでいたカイトは、侍従の声に目を開いた。


 豪奢な部屋に、きらびやかな衣装。舞踏会の会場であるホールへ移動すれば、そこに招待客が加わり目がくらむほどの空間が作り出されているのだろう。


 その光景を漠然と想像し、カイトは左胸の内ポケットに入れた懐中時計を無意識のうちにまさぐっていた。


 この10年、ふと気付けば、懐中時計に手を伸ばしている。その仕草が、すっかり癖になっていた。


「殿下」

「……」


 重ねて向けられた声に答えないまま、カイトは気だるげに控えの間を出る。会場から離れているはずなのに、廊下に出ただけでホールの熱気が押し寄せてくるような気がした。


「殿下、今宵は城下の娘達を一同に集めております。殿下の御心に適う娘の一人はおりましょう。将来の伴侶を、必ず見つけてくださいませ」


 侍従がいささか礼を失した念を押すのは、25歳にもなったカイトが一向に結婚相手を決めないせいだ。そもそも父王が痺れを切らしてこんな舞踏会を開いたのも、全てそこに原因がある。


 早く身を固めて、世継ぎを作れと。


 過去のことなど早く忘れて、未来を見なければならないのだと。


「……」


 カイト自身だって、そろそろそれなりの相手を決めなければならないことは分かっている。自分の立場では、生涯独身を貫くことなど到底許されないということも。


 それでも、念を押す侍従に言葉を返すことはできなかった。侍従の先に立つわけでもなく、ただ導かれるがまま惰性で歩いているのも、そんな心境の表れである。


 ──アリスっ! ほら、早く行かなくちゃっ!


 カイトの胸には、一人の少女が住んでいる。もう決してカイトの元には帰ってきてくれない少女が。


 ついさっきまどろみの中で聞いた懐かしい声を思い出そうとカイトはゆったりと目を閉じる。前だけを見つめて小言をこぼし続ける侍従はそんなカイトには気付いていない。


 ……柔らかい亜麻色の髪に、翡翠のような瞳をした少女だった。快活で、いつだってカイトを引っ張っていってくれる少女だった。彼女と一緒なら、白ウサギの巣穴に飛び込んで不思議な世界に落ちてしまっても大丈夫だと、無条件で信じていた。


 ……そんな彼女は、もうこの世界にいない。


 彼女が落ちていったのは、不思議なウサギの穴ではなくて、奈落の谷底だった。家族諸共もろとも、領地視察の馬車に乗ったまま谷底に落ち、亡骸はついぞ見つからなかった。有力な公爵の娘だった彼女と皇太子であるカイトの婚約が面白くなかった敵対勢力による暗殺という噂もあったが、結局今に至るまで証拠は見つかっていない。


 それからだ。カイトが何もかもに興味が持てなくなり、『傀儡くぐつの王子』と呼ばれるようになったのは。


「……今宵のパーティーは、年頃の未婚の女ならば誰でも参加できると聞きましたわ」


 また指先が、左胸の懐中時計を求めて宙を泳ぐ。


 そんなカイトの指先を止めたのは、不意に耳を叩いた柔らかな声だった。


「ならばわたくしだって、無条件で参加できるはずでしょう?」

「しかし、招待状は……」


 焦がれる声に、似ていた。


 カイトは思わず弾かれたように顔を上げる。そんなカイトの視界に絢爛豪華なダンスホールが飛び込んできた。


 誰も彼もがきらびやかに着飾り、これでもかと言わんばかりに会場は華美に飾り立てられていた。思わずこの会場で一番みすぼらしいのは自分なのではないかとカイトは思う。本来ならば、誰よりもこの会場にふさわしい存在であるはずの自分が。


「招待状はありませんわ。先日この国にやってきたばかりですもの」


 そんなことを思ったのは、声に引かれて視線を投げた先に自分が求めた姿がなかったからだった。


 カイトの耳を引いたのは、入口で揉めている一団だった。どうやら招待状を持たない娘が押しかけてきたらしく、衛兵がそれを止めている。チラリとのぞいている色は白。……亜麻色でも翡翠でもない。


 ──そうだ、リディがこの場に現れるはずがない。


 カイトは自嘲の笑みを浮かべると、部屋を出てから初めて己の意志で足を進めた。そんなカイトに侍従が戸惑うのが気配で分かったが、もうそれに構うことさえ面倒くさい。会場を埋め尽くす正客しょうきゃく達は主催者であるカイトが現れたことにも気付かず自分勝手にさえずり続けていた。カイトにはそれが滑稽で仕方がない。


 ──ここにいるやつらにとって、俺はその程度の人間でしかない。


『世継ぎの王子』に人々は頭を下げるが、『ただのカイト』になど気付きもしない。国政にも結婚にも興味を抱かない、傀儡人形のような無気力王子。


「……参加させてやればいいじゃないか」


 そんな諦観とも自嘲ともとれる感情を転がしながら、カイトは声を上げた。その時にはすでにカイトは揉める一団と数歩の間合いにまで歩みを進めている。


「で、殿下……!!」

「今宵のパーティーは、未婚の年頃の娘ならば誰でも参加できる。そう触れを出して俺の名前で勝手に招待状を書いたのは、お前達だろう?」


 ようやくカイトの存在に気付いた一行がひっくり返った声を上げる。その奇声でようやく王子の存在に気付いた会場は波紋が広がるようにゆっくりとカイトにこうべを垂れた。


「しっ、しかし……!!」


 勝手に自分の名前を使われたことを言外に非難すれば、入口を固めていた衛兵も臣下も反論を口にできない。そのことにわずかに溜飲を下げたカイトは止められていた娘へ視線を向ける。


 衛兵がなぜ娘の入場を拒んだのか、その理由はすぐに分かった。


 雪のように白い髪と、ルビーのように真っ赤な瞳。その色合いに合わせたかのような純白のドレス。髪を飾る宝石は白真珠。唯一色を宿した金の首飾りは鎖が首から長く垂れていて、ペンダントトップは豊かな胸の谷間の中に消えている。


 娘が宿す色は、カイト達には見慣れないものだった。言い方を選ばずに言ってしまうならば『異形いぎょう』と称されるような。


 ──でも、似ている。


 誰もがかしこまって形だけ頭を下げる中、その異形の娘だけが深く膝を折って礼を取りながらも顔を上げていた。真っ直ぐにカイトを見上げたルビーの瞳は、カイトと視線があった瞬間、懐かしいものを見つけたかのように柔らかく細められる。


 そんな中、珊瑚色の唇が笑みを刻み、カイトの意識を引いたあの声で言葉が紡がれた。


「お初にお目に掛ります、カイト殿下」


 髪の色も違う。瞳の色も違う。


 だけどその柔らかな声と、温かな笑みが似ていた。


 それだけで、カイトには十分だった。


「臣下の無礼をどうか許してほしい」


 気付いた時には足が前に出ていた。立ちはだかる臣下を押しのけ、自らの意志で娘に向かって手を差し伸べる。


「どうぞこちらへ、白ウサギの姫君。ちょうど今から最初のワルツが始まる。一曲お相手願おうか」


 ザワリと会場中が揺れたが、カイトはそれに気付かないフリをした。強引に娘の腕を取り、ホールの中心に向かって歩き出す。視線だけで楽団に合図を送れば、呆然と立ち尽くしていた指揮者が慌ててタクトを振った。今宵の宴の始まりを告げるワルツが、いささか慌てふためいた調子で鳴り響く。


「……白ウサギの姫君、貴女のお名前は?」


 ホールの真ん中へ娘を引き出し、ゆったりとステップを刻む。周囲から娘へ嫉妬が、カイトへは非難が視線に込めて投げかけられるが、ワルツに興じている間は堂々とそれらを無視することができる。


「アリス、とお呼びくださいませ」


 カイトが強引に連れ出したにもかかわらず、カイトのリードに身を任せた娘は嬉しそうに笑っていた。今まで夜会で出会ったことはない娘だが、どうやら上流階級の人間であるらしい。流れるようなステップと体重を感じさせない身のこなしは、こうやってワルツを踊ることに慣れている何よりの証拠だ。


「おや、それは奇遇だ。俺も一時期、アリスと呼ばれていたことがある」


 一体何者なのだろう。


 久しく存在さえ忘れていた好奇心がカイトに口を開かせる。


「『カイト・アリスティア・レストルグ』の『アリスティア』から取って『アリス』ですわね」


 そんなカイトにも、娘は嬉しそうに笑んだまま答えた。


 娘がフワリと軽やかにターンを決めるたびに、白いドレスがシャンデリアの光を受けて薄い水色の光沢を見せる。その様はまるで、忘れられない彼女と幼い頃に一緒に読みふけった童話の主人公のドレスのようだった。


 いや、ドレスだけではなくて。


 散々一緒に踊って覚えたワルツ。ターンから戻ってくる時に少し外側に軌道が膨らむ癖。ずっと彼女を相手に練習してきたから、カイトは他の人とワルツを踊るとターンから返ってきた相手を受け止める時に少しだけ体の位置がずれる。


「その呼び名で貴方様を呼ぶお方は、今はいらっしゃいませんの?」


 懐かしい声とよく似た声で問いながら、娘はピタリとカイトの腕の中に収まった。今は亡き彼女としかピタリと合わないはずである、カイトの腕の中に。


「彼女は、10年前に亡くなってしまってね。……もっとも、亡骸は今を以って見つけられていないのだが」


 そのことに、息が詰まる。胸が、苦しくなる。


「他の者にその呼び名を許したことはない。今はもう、呼ぶ者のない呼び名だ」


 だから、かもしれない。


 ポロリと、余計な言葉をこぼしてしまった。


 その言葉に、娘の瞳がもう一度細められる。最初に目が合った時にも見せた、懐かしいものを見るような、泣きそうな微笑みが、雪のような彼女のかんばせをさらに透き通らせる。


「ねぇ、アリスのお茶会は何時から始まると思う?」


 そんな娘の珊瑚の唇から、ひそやかに問いがこぼれた。


 まどろみの中で聞いた懐かしい台詞と全く同じ問いにカイトは目を見開く。


「リディ……」

「今宵のお茶会は深夜12時。鐘が鳴れば、サンドリヨンは去らなければならない」


 懐かしい名前が、無意識のうちに唇からこぼれていた。


 だがそれを遮るかのように、絹の手袋に包まれた指先がそっとカイトの唇に触れる。


「今宵のお茶会のメンバーは、狂った帽子屋に発情期の野ウサギ、眠っているフリをしたヤマネ」


 カイトの足が、完全に止まる。それに追従するかのように娘のドレスもフワリと力を失って落ちていく。


 二人の間にだけ、静寂が満ちた。まだワルツはラストに向けて必死にリズムを刻んでいるというのに。


「ねぇ、アリス。お茶会に似合わないワインは決して飲まないで」


 その静寂の中にそっと、囁きが落ちた。カイトの唇に指先を置いたまま、透き通った笑みを浮かべた娘は伸び上がってカイトの耳元に珊瑚の唇を寄せる。


「飲まずにいてくれれば、血濡れた白ウサギが必ずアリスを助けに行くわ」

「それは」


 ──どういう意味なんだ?


 そう、問いたかった。


 指先が左胸の懐中時計を求めてさまよう。


 だが問いを口に出すよりも、カイトの指が懐中時計に振れるよりも、華々しい終章とともにワルツが最後の音を響かせる方がわずかに早い。スッと体を引いた娘は作法通りに一礼するとカイトと距離を置いてしまう。


 その隙を、虎視眈々とチャンスを狙っていた周囲の人間が見逃してくれるはずもない。


「どういう意味だ、それに君は……」

「殿下! 今宵もご機嫌麗しゅう」

「次はわたくしとご一緒してくださいますわよね?」

「いいえ、私と」

「私の方こそ!」


 傀儡王子が自分からワルツの相手を求めた。


 そんな今までにない状況に俄然やる気を燃やし始めた令嬢やその親がワッとカイトに押し寄せる。


「ま、待て! それよりもあの言葉の意味を……!!」


 波に飲まれたカイトは自分に群がる人混みをかき分けて必死に視線を巡らせる。


 だがどれだけくまなく視線を巡らせても、白ウサギに似た色合いの娘の姿はもうどこにもなかった。





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