第44話 ヒトガタの侵食⑤

「……綾音さん、一人で逃げられない?」

「聖くん一人なら逃げられるかもしれない。私を置いて逃げて」


 弱気な声だった。聖は思わず綾音の顔をみる。


「助けに来てくれてありがとう。でも、二人じゃ逃げ切れないよ。私を囮にしていいから」


 綾音はすっかり憔悴しきっていた。それでも、聖が助かる可能性にかけようとしている。


 光線を寸前のところでかわす。ナハトはすぐそこまで来ている。


「……言ったよね? ぼくは綾音さんのために生きたいって。

 ぼくにとって、綾音さんの居ない世界に意味なんてないんだよ」


 綾音は恩人であり、大切な人だ。自分が自分であることを認めてくれた、かけがえのない存在。だから、置いていけるわけない。


「でも、私はもう……」

「一つ、思いついてることがあ――」


 ふいに、視界が霞む。今はダメだ。今はやめてくれ。今意識を失ったら、それはもう二人の命をも失うに等しい。




…………




 気づいたら、聖はスタジアムの外に立っていた。綾音はまだ抱きかかえている。ナハトは――?


 ナハトはかなり近くにいた。しかし、触手が地面に垂れ下がり、機能を停止していた。


「聖くん?」

「何がどうなって……」

「聖くんが急に着地したと思ったら、ナハトが動かなくなって……」


 どうやら、意識を失ったのは一瞬だったらしい。その間に、なぜかナハトが大人しくなったのだ。


「綾音さん!! 聖さん!!」


 声の主は琥珀だった。どうやら、追ってきてくれたらしい。

 聖は普通に自分の名前を呼ばれたことに違和感を覚えた。いつの間にか元の少女の姿に戻っていたようだ。


「琥珀さん?」

「無茶しすぎですよ! ナハトは……?」


 琥珀も停止したナハトを見て固まる。いったいどうしたのだろうか。


「これは……死亡したわけではありませんよね?」

「まだマナを感じる……」

「今のうちに倒せませんか?」

「無理だと思う。攻撃が通らないよ」


 琥珀の質問に、綾音が答える。どうやら、まだ安心できないどころか、絶望的な状況に変わりはないようだ。


「なら逃げるしかありませんね。もう綾音さんも無理でしょう。一緒に逃げましょう」

「聖くん……」


 綾音が聖を呼ぶ。多分、今から言うことを察しているのだ。


「ぼくが残るよ。琥珀さん、綾音さんをお願い」


 聖は綾音を琥珀に委ねた。そして、ナハトに向かって歩いていく。


「……な、何をする気ですか?」

「時間稼ぎ、ぼくがするよ。だから、二人で逃げて」


 二人には遠くに離れてもらわなければならない。今から自分がすることは、とても危険なことだから。


「ダメだよ、聖くん……」

「綾音さんで無理だったものが、あなたにできるわけないでしょう?」

「綾音さんはこの先もアイビスに必要な人だよ」


 聖は振り向き、琥珀の目を見て言った。琥珀なら、わかってくれると思ったのだ。


「待って! ……聖くん!」

「策はあるんだ。二人が居ると、それができない。だからお願い。琥珀さん」


 聖の訴えに、琥珀は目を伏せた。悩んでいるのかもしれない。

 背中に気配を感じる。ナハトがまた動き始めたのだ。


「――琥珀さん!!」

「……わかりました。お願いします」


 琥珀は振り返り、綾音を連れて飛んでいった。


「待って琥珀さん! ――聖くんっっ!!」


 なけなしの力で叫ぶ綾音の声が、どんどん小さくなっていく。これでもう大丈夫だ。


 ナハトがゆっくりした動作で進み始める。一歩、また一歩と足を踏み出す。


 聖がしようとしていることは、初動の鈍さがある今しかない。聖は愛夢に変身した。


 高速移動でナハトの懐に入り、体に触れる。この感触を頭に入れておく。そしてそのまま通りすぎ、ナハトの背後に回った。


 綾音でも避けきれなかったナハトの攻撃。それを耐えるには、対等の力が必要だった。


 すなわち、自分自身がナハトになれば、聖でもナハトと戦えるということだ。


 聖はナハトへの変身を試みる。触った感触を思い浮かべながら、自分の体を変化させる。

 黒い装甲のような表面、それなのに伸縮自在の柔らかい触手。その全てが自分のものとなる。


 今から、聖は人でなくなる。

 正直、怖い。一時はバグである可能性に絶望し、殺してほしいとすら思ったのだ。それなのに、今は自ら進んでバグになろうとしている。


 でも、今はこれが自分自身だと揺るがない。それは、ナハトに変身することが、綾音やみんなを守るための唯一の手段だと思うからだ。


 美倉聖の生きる意味。それは、綾音を守ることなのだ。

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