第36話 ナハトとイデア④

◇◆◇




 綾音は北塔の管制室で昨夜検知されたデータを見て、ナハトの進行方向を調べていた。


 ナハトはカレンを追跡していたが、ある場所で止まっている。これは、カレンが捕まったのか、ナハトが追跡を諦めたのかのどちらかだ。

 そこにカレンの遺体がなかったため、逃れたと考えることができる。ただ、状態も考えられなくはないため、安心することはできない。


 それに、カレンのマナもここで途絶えている。

 つまり、何らかの理由でマナを使わなくなったのか、あるいは、使うことができなくなったのだ。


 だから、カレンの生存の可能性は、本当に半分ほどの確率だった。


 ふうとため息をついた瞬間、胸の辺りから無機質な音がなった。着信だ。

 今の状況だと、綾音の電話はよほどのことがないと鳴らない。綾音はすぐに電話を取った。


「はい」

「綾音、私だ」


 電話は初果からだった。綾音は管制室から廊下へと移動する。


「何かわかった?」

「憶測だがいいか?」


 なぜか許可を求められた。ここで、憶測は受け付けない、なんて返せるわけがないのに。


「……初果なりに自信があるんでしょ。聞くよ」


 綾音は左右を確認し、壁にもたれかかる。


「美倉聖とナハトのことだ」

「聖くん?」


 まさか、聖の名前を並べられるとは思わなかった。初果も今はナハトのことしか調べていないと思っていたのだ。


「綾音が思っていたとおり、美倉聖はナハトじゃない。しかし、ナハトの鍵を握っているかもしれない」

「……どういうこと?」

「美倉聖は、ナハトと交信している」

「え?」


 交信? バグ関連ではあまり使わない言葉だった。


「綾音が行った後、別人格時の美倉聖は頭を押さえて苦しんでいた。そこで、室内のマナを計測してみたが、美倉聖から何か発信しているようだった」

「発信? それが何かわかる?」

「わからん。ただ、共鳴のときと波動が似ているようだ。

 瀬川カレンがヒトガタに追われていたと言っていたのは、発信の数分前だった。共鳴の波動は狼狂と関係が深いことから、そのヒトガタ擬きのような存在になんらかの影響があったとしても不思議じゃない。


 そして、一昨日の夜にナハトを検知したときも、昨日と同じで、彼の別人格が現れていた時間だ。

 美倉聖がナハトに影響を与えている可能性はかなり高い」


 確かに、聖の別人格の発現と、ナハトの出現の時間は一致している。それは疑いようのない事実だった。


「それと、美倉聖とナハトが同一の個体ではないと仮定すると、移動推移が同じだったことは、どちらかがどちらかを追跡していた可能性が高い。ひょっとすると、ナハトの狙いは――」

「――聖くん……」

「そうだ。私の予想だと、美倉聖はナハトに狙われている」

「……すぐ行くよ」


 綾音は電話を切り、窓から飛び出す。その時、再び電話が掛かってきた。まだ伝えることがあったのかと電話を取ると、違う声が聞こえた。琥珀だ。


「綾音さん、ナハトと思われる個体を発見しました」

「――どこで!?」

「南塔です。聖さんを追っているようなので、私はそれを追跡します。あと、ナハトはカレンさんの姿に擬態しているようです」


 綾音は状況の理解に苦労する。カレンの姿をしたバグというだけで前代未聞だが、琥珀はそれを確信しているらしい。

 本当にそれがナハトならば、その力はまるで……聖のバリアントのようではないか。


「私もすぐに行きます」

「南塔で蘭さんが負傷しています。綾音さんはそちらの応援を」

「――琥珀さん!?」


 切れてしまった。急いでいるし、仕方ない。ここは追跡を優先させるべきだ。

 ただ、琥珀が先走らないかは不安だった。ただでさえ、カレンが行方不明になって責任を感じているのだ。ナハトを見たら飛びかかりそうな気がする。


 でも、そこは信用するしかない。綾音は南塔の部隊に蘭の救護を要請し、自らも南塔へ向かった。




 南塔に到着すると、ちょうど蘭への輸血が始まったところだった。


「蘭さん……無事で良かった」


 飛び散っていた血液から見るに、かなり危険な状態だったのではないだろうか。外壁にも、保健室内にもかなりの量の血の跡が広がってた。

 蘭の傷は綺麗に塞がっていた。蘭がこの状態で自身を修復できるとは思えない。

 恐らく、聖が蘭に変身したのだ。蘭は聖の変身を目の当たりにしたのだろうか。


「綾音さん……聖が……」

「大丈夫、私も追いかけます。琥珀さんがどっちに行ったのかわかる?」

「東のほうだと思う」


 綾音はすぐに窓から出ようとするが、思うところがあり、踏みとどまった。


「ナハトはカレンさんの姿をしてたんだよね。聖くんの様子はどうだった?」


 蘭は困ったような顔をする。前後が繋がらないのだろう。

 それでも、蘭は口元に手をあて、恐る恐る口を開いた。


「……『わたし』って言ってた」

「わたし?」

「いつも『ぼく』って言うのに。だから、別人みたいだなって」


 聖の一人称が変わっていた。それは、聖の別人格が発現していた証明だろうか。

 ナハトと別人格の聖が遭遇したとき、何が起こるのだろうか。


 共鳴に似た波動。

 ナハトが『ヒトガタ』であるというカレンの報告。


 これらが一つに繋がるとき、起こりうるのは、最悪の厄災ではないのか。心臓がぎゅっと締めつけられるような不安がよぎる。


「……一年、三年全部隊に帰還要請を」

「綾音さん?」


 そこに居た全員が綾音を見た。


「管制に連絡してください。二年はアイビスの周辺住民の避難誘導に入り、他学年も戻り次第、避難誘導に向かうように」


 救護のために来てくれていた南塔C班のリーダーが、目を見開きながら言う。


「避難誘導ですか? 範囲は……?」


 綾音は聖の向かった場所を推定する。


「……公園から遠ざけるようにしてください」

「――りょ、了解!」


 C班が保険室から去ると、綾音は今度こそ聖たちを追おうと窓から身を乗り出した。しかし、それを蘭に制されてしまう。


「待って、私も行く」

「ダメだよ。無理しないで」


 綾音が言うと、蘭は首を小さく横に振った。


「……油断したとはいえ、こんな怪我を負わせてきたんだよ。避難要請するくらいに、綾音さんも危険と思ってるんだよね? そんなやつの近くに聖と琥珀が居る……何かあった時に私が必要だよ」

「…………」


 蘭の言うことももっともだった。今、聖と琥珀が凶悪なバグと対峙しているかもしれない。ただちに治療が必要である可能性もある。


 綾音は点滴スタンドから血液バッグを外し、蘭に持たせる。そして、蘭をお姫様だっこのような形で抱えた。


「近くで降ろすから、絶対にそこから動かないようにね」

「は、はい……」


 蘭の顔が紅潮してしまった。貧血により熱が上がっているのだろうか。でも、行くしかない。

 綾音が動き出した瞬間、電話が鳴った。琥珀からだ。手が塞がっているため、ハンドレスで応答する。


「綾音さん、ナハトと聖さんは公園の競技場に降り立ちました」


 場所はドンピシャだった。別人格の聖も、周囲の安全に配慮しようとしてくれているようだ。


「わかりました、すぐに向かいます。琥珀さんは無茶なことしないでね」

「わかってますよ」


 イラっとした感じに返され、電話が切られる。逆効果だったかもしれない。急いで向かわないと。


「辛かったら言ってね」

「……浮かれないように気をつけます」


 綾音は蘭を抱いて窓から飛び出す。

 蘭とは、何か会話が噛み合っていないように感じる。ただ、到着したときよりも元気になっているようだったので、気にしないことにした。

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