第35話 ナハトとイデア③
「えっ……」
小柄な体格と長いツインテール。見覚えのあるその魔女は、今みんなで捜索中である、カレンだった。
でも、その雰囲気には違和感しかない。彼女は、こんなに嫌な空気を出していただろうか。
「どうしたの?
――って、カレン!!??」
蘭が即座に窓に足をかける。驚きと喜びの混ざったその顔は、今にもカレンに抱きつかんばかりだった。
一方、聖は圧力の主がカレンであることに、不安を抱いていた。
この圧力は、街で会った不思議な女性に似ている。あの時は、亡くなったはずの人が……ナハトに殺されたはずの人が目の前に現れたのだ。
あの人は……カレンじゃない!
「蘭さん、待って!!」
「え? ――っ!!」
その瞬間、蘭の背中から黒く鋭い鉄のような物質が突き抜けた。
「蘭、さん……」
突然の出来事に、聖は言葉を失う。時間が止まったかのようになり、音が消えた。唯一視界を動くものは赤い液体だけだった。
蘭がこっちに押し返された瞬間、聖は我に返った。
「蘭さん!!」
塔の外壁に叩きつけられた蘭を、聖は部屋の中へと引き入れ、そのままベッドに寝かせた。蘭のお腹からは流血が続いている。
「カレン……どうして……?」
「しゃべらないで! ――血を止めないと」
蘭はお腹から背中まで貫かれている。血を止めないと助からない。
自然治癒の力を増幅させる効果を持つ『治癒魔法』でどうにかなる状態でもなく、止血も厳しい。この状況を打破できるのは、蘭による『修復』のバリアントしかない。
しかし、当人がこうなっている以上、それも不可能だった。
対処する方法は一つしかない。迷う余裕もない。聖は近くにあったタオルを蘭の顔に乗せ視界を遮ると、変身した。聖は蘭の姿になった。
『修復』は目の前で見たから、イメージもつきやすい。すぐさま治療に取り掛かった。
瞳に熱がこもる。きっと、赤くなっているのだろう。その力を蘭のお腹に当てる。すると、見る見るうちに、腹部の傷が塞がっていく。
傷が完全に消え、出血が止まる。まだ蘭は苦しそうだが、過剰出血による貧血を起こしているからだろう。すぐにでも輸血してあげたい。
しかし、聖は自分が見られていることに気づいていた。振り返ると、窓の外からカレンの姿をした何かが、じっとこちらを見つめていたのだ。
「やはり、お前がイデアだったか」
「イデア……?」
それは聖のことを言っているようだった。聖は少女の姿に戻ると、改めて敵を目視した。
見た目は完全にカレンだった。アイビス北塔の制服姿で、髪もいつものツインテールだ。ただ、どこか目が虚ろで、表情がない。
「イデア、私を真の力に目覚めさせろ」
「ぼくは……そんな名前じゃない。イデアなんてしらな――」
ふいに、頭痛が聖を襲った。脳の中心に生き物でも居るかのような不快な痛みが、聖を苦しめる。
「うああああああああああ!!!!!!」
頭を押さえて前屈みになる。苦しみながら敵の方を見ると、無表情のまま、聖の様子を見ていた。
その時、目の前が真っ暗になった。意識がシャットアウトされたのだ。
◇◆◇
蘭は、お腹の傷が消えたことには気づいていたが、意識が飛びそうになっていた。
それでも、耳に意識を集中させ、今の異常事態を把握することに努めた。
「イデア、目覚めたか」
カレンではないカレンが言う。その声には抑揚が無く、いつもの甲高い子ども声とは大違いだった。
あれは、バグがカレンに化けているのだ。しかし、なぜ普通に会話できるのだろうか。あれがナハトなのか。
そして、バグは聖のことを知っているらしい。聖のことを『イデア』と呼んでいる。それは、記憶を失う前の聖の名前なのだろうか。
「……あなたは、この前の化け物?」
聖の声だ。聖もこのバグを知っているのか。
ただ、聖も話し方がいつもと違う気がする。いったい、何がどうなっているんだ。
「お前も同じだ」
「わたしは違う……」
「我々にはイデアが必要だ。その体を渡せ」
二人の話はどうも要領を得ない。一つわかるのは、カレンの姿のバグが話し慣れておらず、会話の道筋が立っていないことだ。
聖も別人のようではあるが、こちらは声の抑揚からも人間味が感じられた。
「……わ、渡せない」
聖の声は苦しそうだった。タオル越しにうっすらと見える影が一つ、後ずさりしていく。
「ここじゃダメ……」
聖は窓から外へと出ていった。バグもそれを追いかけたのか、周りから気配がなくなった。
蘭は視界を塞いでいたタオルを取る。聖が聖ではなくなった時点で、蘭には息を潜めるしか選択肢がなく、貧血のせいもあって呼吸が激しくなっていた。
すぐに連絡しないと。そう思って携帯電話を取り出す。しかし、視界もぼやけて、指にも力が入らなかった。
「蘭さん!? 今カレンさんと聖さんが……」
二人が出ていった窓から侵入してきたのは、琥珀だった。寮で仮眠していたから、南塔の異常に気づいたのだろう。
「こ、琥珀……」
蘭は必死に体を起こそうとしたが、琥珀に制された。
「休んでいてください。今誰か人を呼んできます」
「聖を追って」
「いったい何が――」
「あれはカレンじゃない」
琥珀は眉間にしわを寄せる。
「違うって……」
「あれはナハトよ。聖が危ない……!」
ナハトが人に化けている。元々その説を唱えていた琥珀だから、その状況はすぐに飲み込めたのだろう。視線を窓の方に向け、今にも飛び出していきそうだった。
「綾音さんに、連絡を――」
「わかってますよ。すぐ助けに来てくれるはずですから、あなたは大人しく休んでいてください。
私は二人を追います」
そう言って、琥珀は窓から外へ出ていった。琥珀はひねくれ者だが、正義感が強く、仲間思いの人だ。今は琥珀に任せよう。
しかし、改めて自分の体の傷あとを見ると、誰かに任せたら安心できるというものでもないように思う。蘭は、自身の傷で敵の恐ろしさを痛感した。
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