第七章 ナハトとイデア

第33話 ナハトとイデア①

 綾音が現場付近に到着した時、すでにバグの気配はなく、カレンも居なかった。追われていたから、ここからもっと移動したと思われるが、形跡は残っていなかった。


 その後、カレンから連絡はなかった。近くに居た偵察部隊も、カレンとバグを発見することができず、見つかったのは、壊れた携帯電話だけだった。


 何か検知されていなかったか管制に問い合わせてみたが、バグは検知されていたものの、カレンとの電話の数分後には反応が消えたようだった。


 検知から逃れるそれは、恐らくこのバグこそがナハトだ。


 カレンは電話が切れる直前に、『ヒトガタ』と口にしていた。ということは、魔女が狼狂する瞬間を見たのか、あるいはカレンが見た目でそう判断したのかのどちらかだ。


 『ヒトガタ』は厄災クラスの存在であり、もし本当なら、もっと膨大なマナが検知されるはずだ。それに、狼狂したはずなのにまた姿を消したことの説明がつかない。この事件は謎だらけだった。


 その日は、夜にも大規模な捜索を行った。しかし、何の成果も出せず、カレンを見つけることもかなわないまま、朝を迎えてしまったのだった。




 綾音は二時間ほどの仮眠のあと、南塔に出向いた。これから、聖のクラスがカレンの捜索に向かうからだ。

 南塔の前では、二人の生徒が口論していた。それは、琥珀と蘭だった。


「だから、少しくらい休みなさいって!」

「問題ありません。それに、蘭さんに言われることではありません」


 状況は、このやり取りだけで容易に理解することができた。

 昨日、ナハトの捜索にカレンを駆り出したのは琥珀だ。だから責任を感じ、昨夜からずっと働きっぱなしだった。蘭はそれを心配し、注意しているのだ。


「あやちゃん!」

「おはよう」


 気づいてくれた愛夢に軽くあいさつをし、二人の間に入る。


「綾音さん。私は南東部へ捜索に向かいます。カレンさんが分身を撒いた地域は、私ならわかります」

「琥珀!」


 綾音が来た途端、琥珀は何よりも先にそう告げた。そんな琥珀を蘭がしかりつける。

 綾音は一度大きく深呼吸した。


「……琥珀さん」

「はい」

「一度寮に戻って仮眠をとってください」

「……はい!? そんな悠長なことをしている場合じゃ――」

「これは命令です」


 綾音は琥珀の目をまっすぐ見る。すると、琥珀は少し怯んだようだった。


「なんで……」

「今の琥珀さんでは、周りに迷惑がかかります。ナハトと遭遇しても戦えないでしょう。

 カレンさんの居た場所については昨日聞いてるから、私たちだけでも探すことはできるの。だから、少し休んで」

「私は――」

「命令です」


 琥珀は頭の良い人だ。無理をしていることも自覚している。だから、いつものように強く反論できないのだ。

 ついに、何も言わずうつむいてしまった。しぶしぶだが納得したのだろう。


「愛夢ちゃん、琥珀さんを送っていってもらえるかな?」

「合点承知!」

「みんなは捜索をよろしくね。カレンさんはきっと無事だから」

「はい!」


 南塔一組の生徒が散開していくと、綾音はため息をついた。強く言うのは慣れていないため、少し疲れたのだ。

 一人、この場を離れない人が居た。蘭だ。


「綾音さん。聖は?」


 そう訊かれるとわかっていた。綾音はそのために来たのだ。


「大丈夫。東塔で体を見てもらってただけだから、心配しないで。蘭さんは救護班として待機だよね。先に聖くんを迎えに行ってもらえるかな?」

「了解。……綾音さんも、無理しないでね」

「うん。ありがとう」


 蘭の目には、綾音も無理しているように見えたらしい。こういう体調の変化に鋭いのが蘭という人だ。


 この事態に、綾音が不安で苦しんでいることなど、蘭にはお見通しなのだ。体の異常を治すバリアントを持っているだけに、心の変化にもめざといのかもしれない。




 蘭を見送ると、今度は北塔へ向かう。リーダーであるカレンが不在のため、困っていることもあるだろう。

 本当は綾音も捜索に向かいたい。しかし、全体で動いている時こそ、リーダーは後ろでどっしりと構えていなければならない。まずは北塔のフォローと、他学年を含めた全体の情報の把握に努めたかった。


 現在、アイビスの生徒は交代で捜索と警備に向かっているため、ほとんど出払っている状況だった。一年生がカレンの捜索、二年生が町の警備にあたり、ナハトの捜索は、主に三年生が行っている。


 バグの駆逐をする機会は、三年生ほど多い。これは、機関に配属される日が近い三年生に手柄を譲ろうという、伝統的なものだ。


 街にバグが現れたときのようなイレギュラーなケースは別だが、巣が見つかったときなど、バグの存在が確約されているケースは三年生の出番となる。


 もちろん、下の学年が先に見つけたなら譲る必要はない。そもそも、魔女の使命はバグの駆逐であり、優先権が与えられることがおかしい。これは悪習なのだ。


 カレンの捜索は、昨夜琥珀から聞いた情報と、綾音との通話による位置情報を参考に行っている。


 カレンのバリアントは『分身』である。自分の姿に似せた影を作るだけなら『幻惑』とそう変わらないが、そのひとつひとつと意思共有できることが大きな特徴だ。


 だから、カレンは分身を各地に撒き、情報を効率的に収集している。それを悪用し、授業中なのに観光していたこともあったらしい。

 戦闘時においても、おとりや身代わりに使うなど、カレンは能力を有効活用している。


 どこかで彼女の分身が発見できれば、カレンを見つけることができるはずだ。それが出来なければ、捜索は難航するだろう。


 ……考えたくはないが、カレンがナハトの犠牲になった可能性もある。そんな想像をすると、綾音は不安で押し潰されそうになる。

 すぐにでもカレンを発見することを、綾音はただ祈ることしかできなかった。

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