第29話 存在理由②
一階まで上がると、綾音は東塔の中央部への扉を開いた。中庭にしては何もなく、しかもかなり狭い。ここは、両手を広げればもう少しで届きそうなくらいの広さしかない。見上げると、小さな青空が見える。こんな空間、南塔にはなかったはずだ。
「浮遊魔法はもう大丈夫?」
「飛べるんだけど、ちょっとふらつくかも」
そう答えると、綾音が聖の手を握った。突然のことに、聖は心臓が破裂しそうなほどドキッとした。
「これでバランス取れるから」
「う、うん」
導かれるままに、二人で跳ぶ。どうやら、この中庭はエレベーターのような役割を持っているらしい。
綾音に引っ張られるように浮き上がっていくと、徐々に空へと近づいていく。小さな穴を抜けると、青い空が一気に広がった。
「うわぁ――」
塔の屋上にやってきたのは初めてだ。聖は夢中になって辺りを見回す。
付近にはそれほど大きな建物もないため、かなり遠くまで見渡すことができる。寮、南塔、北塔と西塔が一気に視界に入る。右手のほうには、以前行ったモールの近くにあった超高層ビルが一際目立っていた。
手を繋いだまま塔の頂上に着地すると、すうっと空気を吸い込んだ。今日がこんなに気持ちの良い天気だなんて、今気づいた。それほど、心の余裕を失っていたのだ。
「たまに登ってるの。ここでこうして町を眺めるのも気持ち良いでしょ?」
「うん」
聖は綾音の横顔を見つめる。赤みがかった髪と青い空のコントラストは、二色のアネモネが咲き乱れているみたいに美しかった。
「……さっきはびっくりしちゃった」
「さっき?」
「初果が聖くんの前で変身したから」
二人の仲では、変身のことは当然知っていたのだろう。だから、綾音も聖の変身をバグと結びつけなかったのだ。
「初果はね、私の前以外では変身したことがなかったの」
「そうなの?」
「うん。初果なりの罪滅ぼしなんだろうね。だから、初果のことを許してあげてほしいな」
罪滅ぼし。それは、聖を殺そうとしたことについてだろうか。
聖は、元より初果を責める気などなかった。むしろ、裁かれるために来たのだから。
「許すだなんて……」
「初果は昔ノルンに居たの。『変身』は、その時につけられた、後天的なバリアントなんだ」
ノルン――それは、綾音の頭の中にあった研究所の名前だった。
綾音はとても重要なことを話そうとしている。聖は息をのみ、じっと綾音を見つめる。
「初果は、聖くんの『変身』についても、ノルンが関わっている可能性を考えていた。だから、初果は聖くんではなくて、聖くんの奥に見えるノルンの影に怯えていたの」
自分がノルンと関わりを持っている。記憶を持たない聖には、それを否定することもできなかった。
「……ノルンって、いったいなんなの?」
きな臭い研究所だと言うことはわかっているが、なぜ二人はそこまでノルンを警戒しているのだろうか。前に得た情報だけでは、それを理解するには足りないようだった。
「そっか、私の頭の中の情報を全部知ったわけじゃないんだよね」
綾音は自分に言い聞かせるように言った。そして、一呼吸置いて話し始める。
「一言でいうと、『魔法そのものを生み出した研究所』。魔女やバグにとっては、創造主みたいなものだよ。
ノルンの役割は、魔女を絶やさないこと。そのために、多くのバグがノルンで作られているの」
それは、魔女の使命がバグの駆逐であり、バグが居ないと魔女の存在意義を失うからだ。
綾音の説明は、聖が変身時に得た情報の補足となっていた。
「バグは人を襲う。それを救うのが魔女の使命。言ってみれば、魔女は自作自演のようなことをさせられているの。
そのことに疑問を持ったのが初果だった」
綾音はどこを見ているのだろう。ずっと遠くのほうへ目を向けている。
「初果は機関を経由して、今の私と同じ年齢からノルンに在籍していたの」
「それって、とんでもなくすごいことなんじゃ……」
「うん。神童魔女だったみたいで、早くから現場よりも本部での活躍を期待されて、飛び級で大学まで出て、すぐに機関で研究者として働いていたの。それでノルンに目をかけられた。
ノルンは、機関でも一部の人しか知らない存在だった。ある意味、機関にとっては敵の黒幕だからね」
将来を嘱望された神童魔女。そんな人が、塔の地下に籠っているのは不思議だった。
綾音の表情が優しくなる。今、綾音が見ているのは過去なのだ。
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