幸せという感情
時間というものはあっという間に過ぎてしまうもので、今日から三月に突入していた。
三月の十七日に屋上で卒業式をやるらしいので、屋上のテントで過ごす時間も残り二週間と少ししかない。
一日一日の学校生活を噛みしめよう。そう思ったのだが、どうやら三限目の途中に寝てしまったようで、三限目終了のチャイムの音で目が覚めた。
被っていた毛布から抜け出して辺りを見回してみると、桜瀬と逢坂が同じ毛布を被って寝ているのが確認出来たが、瑠愛の姿は見当たらなかった。
お手洗いにでも行っているのだろうか。俺もちょっと外の空気を吸いに行こうと立ち上がり、テントの扉をくぐって屋上に出た。
三月の冷たい気温を感じながら視線を上げると、銀髪とスカートを風に揺らしている瑠愛の後ろ姿があった。彼女は屋上の手すりに手を置いたままで、俺に気が付いていないようだ。
「瑠愛、ここに居たんだな」
後ろから声を掛けると、瑠愛はこちらを振り向いて小さく手を振った。そんな瑠愛の隣に立って、俺は手すりに体重をかけるようにして肘を置いた。
「何してたんだ?」
「空を見てた」
「お前は空が好きだな」
「うん、大好き」
視線を空へと向けてみると、今日は青よりも白の方が多い空をしていた。でもほとんどが綺麗な白色をしていて、雨が降りそうな黒い雲はひとつもない。
「なあ瑠愛。俺と瑠愛が初めて出会った時にさ、瑠愛が俺に質問したセリフ覚えてるか?」
瑠愛の顔を見ながら問うと、彼女は風になびく髪を押さえようともせずに首を傾げた。
「んー、覚えてない」
「まあそうだよな。もう二年とちょっと前の出来事だし覚えてなくて当然だよな」
「私、なんて質問したの?」
「たしか……あなたには感情がある? って聞かれた覚えがある」
「あ、言ったかもしれない」
「だろ? それを今思い出したんだ」
屋上で初めて瑠愛と出会ったあの日。俺の世界は明るくなったのだ。この世界にこんなに美しく魅力的な人が居たなんて、考えもしなかった。
そんな女の子が今では同棲までしている彼女になった。人生というものは、何が起こるのか分からないものだ。
「あの時は、自分の感情が分からなかったから」
「そうだったよなー。ずっと同じ表情してたくらいだから」
「でももう、段々とだけど感情が分かって来た」
「笑ったり怒ったりするようになったもんな。ほんと、表情豊かになったよ」
「うん、多分、湊のおかげ」
「俺のおかげ?」
「そう、湊のおかげ」
「例えばどういうところ?」
瑠愛は顎に指を当てながら考えると、こてりと首を横に倒した。
「分かんない。けど、湊と居ると胸がポカポカしてきて、今まで凍ってた感情が溶けて動けるようになった……みたいな」
必死に説明してくれているが、何となくしか伝わってこない。それでも俺が瑠愛と一緒に居たことで、彼女に何かしらの変化があったのだということは伝わってきた。
「うーん、なるほど?」
「絶対に分かってないよね」
「あはは、バレたか。でもなんとなくは伝わってきたぞ」
「ほんと?」
「ああ、ほんとほんと。俺も瑠愛と一緒に居ると胸がポカポカするから、もしかしたら同じようなことを思ってるんじゃないかな」
それを聞いた瑠愛は、目を大きくさせて驚いたような表情を作った。
「湊も胸がポカポカするの?」
「ああ、いつも胸がポカポカしてるぞ。それにこのポカポカとしてる気持ちがなんなのかも、今となっては何となく分かる」
「それは、なに?」
瑠愛は目を大きくさせたまま、俺に答えを求めた。
もしも俺と瑠愛の気持ちが同じなのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
「『幸せ』って気持ちだと思うぞ」
「幸せ……このポカポカが幸せなの……?」
「ああ、瑠愛と一緒に居る時はずっと胸が温かくて、「幸せだなー」って思ってる」
胸に手を当てながら言うと、瑠愛も自分の胸に手を当てて「幸せ」と小さな声で呟いた。まるで自分の胸に刻み込んでいるようだ。
「これが、幸せ」
「ああ、それが幸せだ」
人の気持ちなど複雑で理解しようとしても難解なものばかりであるが、瑠愛の気持ちであれば分かるような気がする。だってきっと、俺と瑠愛の気持ちは同じだから。
だから絶対に、瑠愛のポカポカとする気持ちは『幸せ』であると自信を持って言える。
「湊、私、幸せ」
自分の言葉を噛みしめるようにして、瑠愛は笑顔を作って呟いた。冬の太陽に照らされた彼女の笑顔は、どんな空よりも綺麗に見える。
「ああ、俺も幸せだ」
彼女と同様に笑顔を作ってやると、瑠愛は目を輝かせながら勢いよく俺に抱きついた。
「あー、また先輩たちがイチャイチャしてますよ」
「まったく。ちょっと目を離すとイチャイチャするんだから」
ちょうどいいタイミングで、後ろからは逢坂と桜瀬の声が聞こえて来た。俺と瑠愛が振り返ると、桜瀬と逢坂は上履きに履き替えてこちらへと歩いてきた。
「こんな寒い屋上で抱き合って何してたのー?」
「わたし達が寝ている隙にラブラブしてたんですよね〜」
茶化すような二人に、俺は「あはは」と愛想笑いを返した。しかし瑠愛は俺に抱きついたまま嬉しそうな顔を作り、
「私、幸せ」
と、桜瀬と逢坂に報告した。二人は目を丸くさせながら互いに顔を合わせると、どちらからともなく口元をほころばせた。
「そっかそっか。瑠愛が幸せならアタシは嬉しいよ」
「わたしも瑠愛先輩が幸せならすごく嬉しいですよ! 瑠愛先輩の口から『幸せ』って言葉が聞けて安心しました」
桜瀬と逢坂は優しく笑いながら、瑠愛の頭や頬を撫でている。瑠愛は嫌がる素振りを全く見せずに、俺の首元に頬ずりをした。
四限開始のチャイムが鳴り響くと、瑠愛は桜瀬と逢坂と手を繋ぎながらテントへと戻って行った。
こういった微笑ましい光景も、もう少しで見られなくなってしまうのか。出来ることならいつまでも見ていたいものだ。そんなことを思いながら、俺もテントの中へと戻ることにした。
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