ある感情を知った日

 電車で三十分。そこからバスに乗って三十分。計一時間を掛けて、テレビなどでよく目にする有名な水族館へと到着した。

 チケットを購入して入口を抜けると、自分の背よりも遥かに大きな水槽が現れた。夏休みということもあり、館内は子供連れやカップルの姿が多く見られる。


「ここが……水族館」


 俺の腕を掴んで歩いている瑠愛は、口をポカンと開きながら辺りの水槽を見回している。


「どうせなら立ち止まって見てみようぜ」


「うん、見たい」


 目を活き活きとさせる瑠愛を見てから、人の少ない水槽を見つけてそこへ行く。

 大きな水槽の中には、アジが群れを作って泳いでいた。その下では大きなカニが数匹暮らしているようだ。


「アジとカニって一緒の水槽に入れていいのか……」


 ちょっとした疑問はあるものの、アジが群れをなして泳いでいる姿はとても綺麗だ。そう思っていると、瑠愛は俺の腕を掴んだままガラスに張り付いた。


「どうだ? 面白いか?」


「面白いかは分からないけど、綺麗だと思う」


「空とどっちが綺麗だ?」


「空」


「即答だな」


 瑠愛はそう言いつつも、ずっと水槽から視線を外さない。お気に召してくれたみたいだ。


「この魚たち、何を考えてグルグル回ってるの?」


 そんなことを問われても、俺は魚の気持ちなんて分からない。だからここは、それっぽいことを言うしかない。


「全員で行動してると落ち着くんじゃないか?」


 これにはさすがの瑠愛もこちらを向いて、キョトンとした顔を浮かべた。


「そんな人間みたいなこと考えてるの?」


「予想だけどな」


「私もそう思うから、多分そう」


「魚も大変だな」


「ね」


 瑠愛が納得してくれたのを見て、こんな適当な答えでも良いのかと思わず笑いがこぼれた。すると彼女の頬も、ゆっくりと緩む。


 ──わ、笑ってる……! 今がシャッターチャンスだ!


 慌ててポケットからスマホを取り出し、カメラモードに切り替える。カメラを瑠愛に向けてみると、既に笑顔が消えて不思議そうな顔を浮かべていた。


「どうしたの?」


「いや、笑ってたから写真撮りたかった」


「また笑ってた?」


「ああ、これで二回目だな」


「うん、全然実感ないけど」


「なんで笑ったかは分からないか?」


「多分、湊が笑ったから。それでホッとして、くすぐったくなった」


 そう言えば前も、俺が笑った時に釣られるようにして、瑠愛も笑ってくれた気がする。


「瑠愛、俺の顔を見ててくれ」


「うん、いいけど」


 瑠愛は体ごとこちらに向けて、俺の顔を真っ直ぐに見ている。見られていることを確認してから、俺は満面の笑みを作ってみせた。しかし瑠愛は頬を緩ませることなく、キョトンとした顔を浮かべるばかりだった。その反応を見て恥ずかしくなり、満面の笑みを解いた。


「やっぱりダメか」


「……? どういうこと?」


「俺が笑ったら瑠愛も笑うのかと思ってな」


「そう言えば……今の笑顔は違うみたい?」


 俺の渾身の笑顔だったんだけどな……まあいいか。次に瑠愛が笑った時には、絶対に写真に収めてやる。


「よし、今のは忘れて次に行こう。もっと色々な魚が居るみたいだし」


「うん、行く」


 瑠愛が俺の腕に掴まったことを確認して、二人並んで歩き出した。


 ☆


 色々な魚を見て回ったが、あれ以来瑠愛の笑顔は見られなかった。笑顔が見られないまま、ついに最後の水槽の前に訪れた。

 この水族館で一番大きな水槽らしく、高さは二十メートル近くありそうだ。中には大量のイワシが群れをなしてベイトボールを作っていたり、大きなサメやウツボが泳いでいたりと、眺めているだけで楽しい作りになっている。

 一番大きな水槽というだけあり、足を止める人々の姿も多くある。


「綺麗だな」


 思わず口からはそんな言葉が漏れた。腕に掴まっている瑠愛は、水槽を見上げながらコクコクと頷いた。


「すごく綺麗」


「空とどっちが綺麗だ?」


「同じくらい」


 瑠愛の中で空は、この水槽くらい綺麗に見えているのか。それはさぞ見ていて楽しいことだろう。


「水族館、来てよかったか?」


「うん、来てよかった」


 瑠愛は特に考える様子もなく、水槽に目をやったまま頷いてくれた。泳ぐ魚たちも美しいが、瑠愛の横顔の方が美しくて魅入ってしまう。


「なあ瑠愛」


 名前を呼ぶと、瑠愛はこちらを振り向いた。


「なに?」


「俺、瑠愛のことが好きだ」


 自然とそんな言葉が漏れた。それを聞いた瑠愛は驚いたように目を開くと、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。シャッターチャンスだと思ったが、今までで一番美しい笑みだったので、彼女の表情に見惚れてしまう。


「私も湊が好き。多分だけど」


「多分……」


「最近、湊の夢をよく見る」


「俺の夢? どんな夢なんだ?」


「湊と離れて暮らしたり、別れたりする夢」


「なんか、嫌な夢だな」


「うん、嫌な夢」


 瑠愛は柔らかな笑みを浮かべたまま、胸に手を当てた。


「その夢を見る度に、胸がぎゅーって痛くなるの」


「胸が痛くなるのか」


「うん、どうしてかな?」


 柔らかな笑みから一転、瑠愛は目を丸くさせた。彼女の手にぎゅっと力が入ったのが、腕に伝わってくる。


「それは悲しいからじゃないか?」


「悲しい?」


「そう、俺と離ればなれになるのが悲しいから、胸がぎゅーって痛くなるんだよ」


「じゃあ私、悲しいって感情が分かるの?」


「ああ。瑠愛が気付いてなかっただけで、きっとそれが悲しいって感情なんだよ」


 こちらに視線を向ける瑠愛の青い瞳に、水槽の淡い光が反射してとても綺麗だ。そんなことを考えていると、瑠愛は俺の腕を掴む手にさらに力を込めた。


「私、湊と離ればなれになるのは悲しい」


 瑠愛から感情をぶつけられるのが初めてで、その言葉が俺の心臓を貫いた。

 感情が分からないと言っていた瑠愛から、感情をぶつけられた。それがすごく嬉しくて、思わず彼女の頭を撫でていた。


「何があっても俺は絶対に離れないから安心してくれ。瑠愛が嫌じゃなければな」


「嫌じゃない。ずっと一緒に居て欲しい」


「ははは、俺も随分と好かれたもんだな。だからそういう変な夢を見てもさ、絶対に現実には起こらないから安心して寝てくれ」


「うん、そうする」


 ちょこんと頷いた瑠愛が可愛すぎて、頭をぐしゃぐしゃと撫でてしまった。しかし瑠愛は嫌がる素振りを全く見せず、むしろ気持ちよさそうにしていた。


「湊」


 名前を呼ばれて手を止めると、瑠愛はもう一度柔らかな笑みを浮かべた。


「好き」


 その二文字が耳に入って来た瞬間に、俺は瑠愛を力強く抱きしめていた。


 ――第七章 完――

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