たまには風邪を引くのも

 苦しそうな息遣いが聞こえてきて目が覚めた。

 カーテンの隙間からは太陽の光がこぼれている。


「はぁ……はぁ……」


 とても苦しそうな息遣いだ。もしかして瑠愛に何かあったのだろうか。そう思い体を起こそうとすると……。


「あ、あれ……」


 頭がクラクラとして、目が回っているかのような感覚。そこでようやく、苦しそうな息を吐いているのが自分だと言うことに気が付いた。

 体を起こしているのもやっとで、ベッドに横たわってしまう。


「湊?」


 大好きな人の声が聞こえてきた。これは幻聴なんかではない。同棲を始めたのだから、隣に彼女が居るのは当然だ。

 今度は瑠愛が体を起こして、俺のことを見下ろしている。


「すごく苦しそう……風邪?」


「ああ、多分風邪だな。瑠愛、テレビ脇にある引き出しに体温計があるから取ってきてくれないか?」


「うん、分かった」


 瑠愛はコクリと頷くと、引き出しから体温計を見つけ出してこちらへと持ってきた。

 普段の寝起きであれば一時間近くベッドの中でモゾモゾとしている瑠愛だが、今日は起きてからの動きが素早い。ちょっとは心配してくれているのだろうか。


「ありがとう」


 そう言って体温計を受け取り脇に挟む。そんな俺の様子をまじまじと眺める瑠愛。少しするとピピピと音が鳴った。脇に挟んでいた体温計を取ると、『38.6℃』と表示されていた。


「うん、やっぱり熱があるな」


「何か私に出来ることは?」


「風邪が移るとマズイから、今日は桜瀬の家にでも泊まってくれると助かる」


「それはイヤ。湊の看病する」


「俺の看病なんてしてたら風邪が移っちまう」


「大丈夫。一緒に寝てた時点でもう手遅れ。あと、おたふく風邪を最後に風邪引いたことないから」


 瑠愛のおたふく風邪か……ちょっとだけ見てみたい気持ちもある。


「おたふく風邪ってあれだよな? 小さい時に掛かるやつ」


「そう。私、幼稚園生の時から今まで風邪引いたことない」


「まじか……健やかすぎるだろ……」


「うん、だから看病出来る」


 一緒に寝てた時点で手遅れだという言い分も分かるし、幼稚園生の時から風邪引いたことがないなら一緒の部屋に居ても大丈夫なのかもしれない。発熱している頭でそう考えると、俺は首を縦に振っていた。


「じゃあ……頼むわ……」


「うん、何したらいい?」


「キスで」


 冗談で言ったつもりだったのだが、瑠愛はなんの躊躇いもなしに俺の唇にキスをした。顔を離した瑠愛は、あっけらかんとした表情を浮かべている。今のキスで熱が三十九度まで上がってそうだ。


「ま、待て瑠愛。絶対今ので風邪移ったぞ」


「だってキスしてって言うから」


「冗談のつもりだったんだけどなあ」


「私に冗談は通じない」


「……そうだったな」


 これは完全に俺が悪い。今は軽い気持ちで冗談を言うのはやめておこう。


「他に何かして欲しいことは?」


「水が欲しいかな。スポーツドリンクとかは冷蔵庫に入ってないよな?」


「買ってくる」


 瑠愛はそう言うと同時に立ち上がり、外に出る準備を始めた。寝起きにも関わらず、こんなにテキパキと動く瑠愛を初めて見た。

 すっかり見慣れた瑠愛の生着替えを眺めていると、あっという間に外に出るための準備が出来たようだ。


「行ってくるね」


「おう、ほんとにありがとな」


「うん」


 ちょこんと頷いた瑠愛は部屋から出て行こうとすると、何かを思い出したようにして戻って来た。


「忘れ物か?」


「うん」


 瑠愛はそう言いながらこちらへと駆け寄って来たかと思えば、もう一度俺の唇にキスをした。


「じゃあ、行ってくるね」


 満足そうな顔をした瑠愛は、パタパタとゆっくりめな早足で部屋から出て行った。玄関の扉が閉まる音が聞こえてくると同時に、きっと俺の熱は四十度まで上がっただろう。


 ☆


 目がゆっくりと開く。ベランダの窓から見える空は、赤く染まっていた。どうやら寝てしまっていたようだ。体を起こすと、さっきまでの辛さは緩和していた。


「湊、起きた」


 テレビを見ていた瑠愛は俺が起きたことに気が付くと、こちらに体を向けた。


「これ、スポーツドリンク買って来た」


 瑠愛からスポーツドリンクの入ったペットボトルを受け取る。


「まじでありがとな」


「いえいえ」


 お礼を言いながら、乾いていた喉にスポーツドリンクを流し込む。冷えていてめちゃくちゃ美味い。


「お腹空いてない?」


 目を丸くさせて首を傾げる瑠愛。やっぱり俺の彼女は可愛すぎる。


「ちょっとだけ空いたかもな」


「お粥作ったんだけど、どう?」


「食べます」


 即答だった。そう言えば瑠愛も一人暮らしをしていて、自炊も人並みに出来ると話していた。いつも料理は俺が作っているので、瑠愛が何かを作ってくれるなんて初めてかもしれない。


「ちょっと待っててね」


 瑠愛はそう言ってキッチンへ行くと、五分程でお茶碗とスプーンを持って戻って来た。


「お待たせ」


 瑠愛はベッド脇に腰を下ろすと、お粥をスプーンですくって俺の口元へと寄せた。


「あーん」


 彼女に言われるがままに口を開くと、中にお粥が入ってくる。米と卵に絶妙な塩加減。俺が作るお粥なんかよりも、よっぽど美味しい。


「やば、めっちゃ美味い」


「でしょ? もっと食べて」


「はい」


 それからもお茶碗の中に入っているお粥が無くなるまで、瑠愛は「あーん」をしてくれた。

 それからも瑠愛による熱心な看病が続き、こんなに彼女に甘えられるなら風邪を引くのもアリなのでは? と思ってしまう自分が居た。



 ☆


 目が覚めると朝だった。体を起こしてみると、昨日ずっと感じていたダルさは全て消えていた。


「湊、体調はどう?」


 隣で寝ていた瑠愛は目を覚ますと同時に体を起こした。


「結構いい感じだな。もう治ったと思う」


「熱測った?」


「いや、まだだな。ちょっと測ってみるわ」


 テーブルの上に置いていた体温計を脇に挟む。ほんの数分でピピピと音が鳴ったので取って見てみると、『36.4℃』と表示されていた。それを瑠愛に見せる。


「瑠愛の看病のおかげで治ったみたいだな。本当にありがとう」


 瑠愛には本当に感謝している。それを言葉にすると、瑠愛は目を大きくさせて俺に抱き着いた。


「治ってよかった。すごく心配した」


 病み上がりの俺の心には、そんな瑠愛の言葉も響いて泣いてしまいそうだ。


「明日、どっか遊びに行こうな」


 昨日は俺の看病で一日を潰してしまったのだ。その分も含めて、瑠愛とどこかへと遊びに行きたい。

 瑠愛は抱き着いたまま、俺の顔を見た。


「水族館がいい」


「瑠愛から提案するなんて珍しいな」


「昨日テレビでやってて、湊と行きたいと思った」


 そこで俺と行きたいと言ってしまうところがズルい。そんなの、絶対に叶えてあげたくなるじゃないか。

 俺は我慢出来ずに、思い切り瑠愛を抱きしめる。


「ああ、絶対に水族館行こう」


「うん、約束」


 病み上がりの朝に、明日の予定が決まってしまった。今日は家でゆっくりとしながら、明日の予定を立てることにしよう。


 ちなみに昨日ずっと一緒に居た瑠愛だったが、俺の風邪が移った気配など微塵も見せなかった。どうやら彼女が言っていた、「おたふく風邪を最後に風邪を引いていない」という言葉は本当だったようだ。

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