小さいようで大きな進歩
明日からは一ヶ月半にも及ぶ夏休みが始まる。夏休みを前にしたソワソワ感を覚えながら、俺と瑠愛は就寝前の時間を過ごしていた。
「瑠愛ー、もう洗濯物ないよな?」
「うん、ない」
「はいよ」
テーブルでココアを飲みながらテレビを観ている瑠愛の様子を見てから、洗濯物を洗濯機の中へ詰め込んだ。洗濯機の中には、二人分の衣類が入っている。もう洗う物はないなと確認してから、洗濯機を回す。
リビングに戻ると、瑠愛がこちらを見ながら床をポンポンと叩いた。
「湊、隣」
一人でしりとりでもしているのかと思ったが、これは「隣に座れ」ということだろう。
「はいはい」
可愛らしい命令に従って、瑠愛の隣に腰を下ろす。すると瑠愛は、俺の体にピタリとくっついた。うん、めっちゃ可愛い。一日の疲れが一気に吹き飛んだ。
「湊、明日の予定は?」
「明日か? 明日は特に予定はないな」
「そっか」
「どこか行きたいところあったか?」
「特にないけど、湊の行きたいところに行きたい」
そんな愛おしいことまで言ってしまうのか……。
ほんとうに、瑠愛と同棲してよかった。もしも同棲をしていなかったら、ここまで瑠愛の可愛さを知ることが出来なかっただろう。ちょっと手がかかるが、そこも含めて愛おしい。
「俺の行きたいところかー。どこかあるかなあ」
行きたい場所なんて考える機会がないので、頭をフル回転させて考える。テーブルに置いてあるココアに手を伸ばそうとした時、あまり聞き慣れない着信音が部屋に鳴り響いた。
「ん、電話」
どうやら瑠愛のスマホが着信を知らせたようだ。
瑠愛はテーブルにあったスマホを手に取ると、俺に画面を見せつけた。そこに表示されていたのは、『お父さん』の四文字だった。
「え……お父さん……?」
「うん、お父さん。出てもいい?」
「いいけど……心の準備が……」
「出る」
「あ、はい」
瑠愛は人差し指で応答ボタンを押すと、耳にスマホを当てた。
「はい……うん、元気…………うん……隣に居るよ…………うん」
ここからでは電話相手が何を言っているのかは分からないが、男性の声であることは分かる。もしかして俺に電話を代わるように言われるのだろうか。
「うん…………湊に代わる?」
やばい、これは来るのか……?
「あ、そう……代わらなくねいいんだね」
よかったああああああ……!
とりあえず、この場だけは助かったようだ。
「うん……明日から夏休み……うん、うん……明日? ちょっと湊に聞いてみる」
瑠愛はスマホを耳から離すと、眠たそうな目をこちらへと向けた。顔との距離が近いので、ドキリとさせられる。
「明日って何も予定ないって言ってたよね?」
「特にはないな」
「お父さんが彼氏を連れて来いって言ってるんだけど」
「え、明日?」
「そう、明日」
お父さんが俺を連れて来いって言っている……? しかも明日……? とてつもなく嫌な予感がするんだが……。
瑠愛はキョトンとした顔でこちらを見ている。その手には保留にもしていないスマホが握られているので、下手なことは何も言えない。
「わ、分かった……行こうか……」
そう言うしか選択肢がないだろう。コクリと頷いた瑠愛は、もう一度耳にスマホをあてた。
「もしもし、湊が明日行けるって……うん……うん、分かった。お昼食べたら行くね……うん、ありがとう……じゃ、ばいばい」
通話が切れたスマホをテーブルに置いた瑠愛は、またも俺の顔を覗き込んだ。
「明日、お昼食べたら行くことになりました」
「ああ……聞いてたぞ。電車で行くのか?」
「ううん、タクシー使って来なさいだって」
「なるほど、了解した。瑠愛の実家はここから近いのか?」
「うーん、車で一時間くらいのところにある」
「ちょっとだけ遠いな」
「うん」
ちょこんと頷いた瑠愛は、眠たそうな目を猫のように擦った。
「もう眠いか?」
「うん、眠い」
時計を見ると、もうすぐで二十三時になるところだった。そろそろ瑠愛の寝る時間だ。
「じゃあもう寝ようか」
「ん、歯磨きしてない」
「あ、俺もまだしてないわ」
瑠愛の父親に呼び出されたことが頭を埋めつくして、危うく寝る前の歯磨きを忘れるところだった。
でも眠たそうな顔を浮かべる瑠愛を見ていると、どんどんと心が落ち着きを取り戻していく。
「よし、歯磨きして寝よう」
「うん、する」
立ち上がって瑠愛に手を差し出すと、彼女はその手を取って立ち上がろうとしたのだが、ずっと座っていたからかバランスを崩してよろけてしまう。そんな瑠愛を優しく抱き寄せる。
「ははは、危なかったな」
何が起こったのか分からないといった表情をしている瑠愛を見て、思わず笑い声が漏れ出た。いきなり笑い出した俺を見た瑠愛は、不思議そうな表情をしたあと──少しだけ頬を緩ませた。
「え……今、笑ってるよな……?」
そう言ってみせると、緩んでいた彼女の頬は元に戻ってしまった。微笑みの代わりに現れたのは、いつものキョトンとした顔だった。
「私、笑ってた?」
「あ、ああ! たしかに笑ってたぞ! ちょっとだけだったけどたしかに笑ってた!」
瑠愛の肩を両手で掴んで、興奮した声を放つ。
それもそのはず、ずっと見たかった瑠愛の笑っている顔を、ちょっとだけではあったものの見ることが出来たのだ。
「なんで笑ったのかは分からないけど、絶対に笑ってたよ! うわぁ、まじで嬉しい」
収まりきらない興奮のまま、彼女の目を見ながら「絶対に笑った」と何度も連呼してしまう。それくらい嬉しかったのだ。
「でもなんで急に笑えたんだろうな?」
「分からないけど、湊が笑ってるのを見てすごく安心した気がする」
「そ、そうかそうか……! それで笑えたのか!」
瑠愛が微笑んだ顔が見れたことが嬉しくて、思いきり彼女を抱きしめる。
「私、ちゃんと笑えてた?」
「ああ! すっごく綺麗に笑えてた! まじで嬉しい!」
「そう、よかった」
華奢な女の子の体を、これでもかと強く抱きしめる。壊れそうなくらい強く抱きしめると、瑠愛も俺のことを抱きしめ返してくれた。
憂鬱に思っていた明日のことなんか忘れて、今は瑠愛が笑ったということしか考えられなかった。瑠愛は笑うことが出来るのだ。それを知れただけでも、明日を頑張ってみようと思うことが出来た。
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