柊の祝辞
「私の祝辞を始めます」
柊はそう言って頭を下げてから、祝辞を始めた。
「私、ひな先輩のことが好き」
その直球な言葉にひな先輩は一瞬だけ驚いた素振りを見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻り「わたしも好きだよ」と返した。
「抱き着いてくるひな先輩も、手を繋いでくれるひな先輩も、寝てるひな先輩も、髪をとかしてくれるひな先輩も、私の服を選んでくれるひな先輩も、ご飯食べてるひな先輩も、全部好き……なのに」
それを口にしたと同時に、柊の頬を一滴の涙が伝った。
感情が分からないと言っていた彼女が流した涙に、祝辞を聞いている四人は息を呑んだ。
柊の目元には大量の涙が溢れ、それが一滴、また一滴と流れていく。しかし柊は流れる涙を拭おうともせず、顎から落ちた涙は風に流されて消え去った。
「なのに……なんでお別れしなきゃいけないの?」
柊は声を震わせながら、ひな先輩の目をまっすぐに見る。ひな先輩はいつもの笑顔を消して、あまり見せることのない真面目な表情を作った。
「お別れじゃないよ」
「お別れだよ……ひな先輩……もう学校に来ないんでしょ?」
「うん、たまには遊びに来るかもだけど、いつもみたくは来れないと思う」
「じゃあ、お別れだよ」
「違うよ。お別れじゃない」
遂に柊はスンスンと鼻を鳴らしながら、すすり泣き始めてしまった。
ひな先輩は真剣な表情のまま椅子から腰を上げると、腕を広げながら柊に近づいていく。その意味を理解した柊は、すぐさまひな先輩の胸へと飛び込んだ。そんな柊のことを、ひな先輩は母のような優しい表情で抱きしめた。
「瑠愛ちゃんも、わたしのこと好きなんでしょ?」
「うん……ッ……大好き」
「わたしも瑠愛ちゃんのこと大好きだもん。瑠愛ちゃんがわたしのこと好きだと思ってくれる限り、目には見えないけどずっと近くに居るんだよ。心では繋がってるってやつだね」
「わけ……わかんない」
「あははー、そうか分からないかー」
ひな先輩は笑顔でそう言うと、胸の中ですんすんと鼻を鳴らして泣く柊の頭を優しく撫で始めた。
「でもなー、本当にお別れじゃないんだぞー。さっきも話にあったけど、たまには学校に遊びに来るから」
「たまにじゃ、いやなの」
「あはは、瑠愛ちゃんはワガママだなあ」
「だって……いやなんだもん……」
しかしひな先輩は嫌な顔ひとつせず、柊の頭を撫で続けている。
「じゃあ分かった。寂しくなったらいつでも連絡するといいよ。ビデオ通話だってなんだってしてあげるよ」
「……いつでも?」
「うん! 用事があったり仕事してる時は出来ないけど、それ以外の時だったらいつでも!」
「……うん、分かった」
「瑠愛ちゃんはいい子だねー、偉いねー」
ひな先輩は目を細めて笑いながら、柊の顔を覗き込んだ。そこにあった柊の顔はこちらからは見えないが、すすり泣くような声は聞こえなくなったので泣き止んでいるのだろう。
よかったよかったと心の中で思っていると、視界の端で誰かが立ち上がった。そちらに視線を向けると、桜瀬が涙で顔を濡らしながらひな先輩の元へとゆっくりと歩み寄っていた。
「ひなせんぱぁい……」
涙で震えたその声を聞いたひな先輩は振り向くと、歩み寄ってくる桜瀬の姿に気が付いた。涙で濡れた桜瀬の顔を見るなり、ひな先輩は笑顔のまま腕を広げた。
「こっちにも大きな赤ちゃんが居たかー。ほらほら、お母さんの胸に飛び込んで来なさい」
「赤ちゃんじゃないですよぉ……」
桜瀬も腕を広げてひな先輩へと抱き着くと、首元に顔を埋めながら泣き始めた。柊と桜瀬を抱くひな先輩の表情は、とても幸せそうだ。
「アタシ、泣くつもりなかったんです……ひぐっ……泣いちゃったらひな先輩、気持ちよく卒業出来ないかと思っでぇ……ひぐっ……アタシだってぇ……もっとひな先輩とお出かけしたり……ひっ……馬鹿なことしたり……したかったでずぅ……だけど泣いたりワガママ言ったら先輩困ると思ったからぁ……ひぐ……」
「そんなことないぞー、わたしのために泣いてくれるなんて嬉しいじゃないか。ほら、もっと泣いていいんだよー、涙全部出しちゃいな」
ひな先輩がそう言って背中をポンポンと叩くと、桜瀬はわんわんと声を上げて泣き始めた。ずっと我慢していた分が爆発したのだろう。その泣いている声に誘発されてか、柊もまたひな先輩の胸に顔を埋めた。
「あはは! 可愛い後輩にこんなに慕ってもらえて、わたしは幸せものだー!」
二人の後輩から抱き着かれているひな先輩が、嬉しそうな顔をしながら声を上げた。ひな先輩は二人を優しく抱き寄せながら、背中をポンポンと叩いている。
その光景を見ながら心にじんわりとしたものを感じていると、隣の椅子に推川ちゃんが座った。
「佐野くんは行かなくていいの? ひなちゃんのところ」
推川ちゃんはからかうような顔を浮かべて、俺の顔を覗き込んだ。
「もう、定員オーバーですよ」
ひな先輩の二本の腕には、桜瀬と柊の一人ずつが抱き寄せられている。
「そんなことないんじゃない? 紬ちゃんと柊ちゃんの間に挟まれば」
「男の俺がそんなことしたら、二人に水を差す気しかしません」
「ふふっ、それもそうね」
推川ちゃんはそう言うと、「ふぅ」と息を吐きながら背もたれに背中をつけて深く座った。その横顔は、感慨にふけているような表情をしている。
「実は推川ちゃんもあそこに混ざりたいとか」
からかわれた仕返しにそう言ってみると、推川ちゃんは空を見上げたままクスリと笑った。
「そうかもね。私も若かったらあそこに飛び込んで行ったかも」
「まだ若いじゃないですか」
「うふふ、ありがとう。でもね、先生だから。色々あるのよ」
「そうなんですか」と言いながら、推川ちゃんが眺めている空を見てみる。
そこにあったのは雲ひとつない青空だった。何度も見ているはずの青空だが、今日は少しだけ違って見えた。どこが違うのだろうと頭を悩ませていると、ひな先輩たちの声が聞こえてきた。
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