変な感情だけはあるのかな
テレビゲームをしていたひな先輩と推川ちゃんが言うには、柊は走ってコテージから出ていってしまったらしい。それを聞くや否や、俺は厚着もせずに外へと飛び出した。
「柊! どこに居る!」
柊が走っている姿など想像が着かないが、ひな先輩と推川ちゃんが言うのなら本当のことなのだろう。
コテージの外に出ても柊の姿は見えない。しかしここで足踏みをするのさえもじれったく思えて、俺は昨日肝試しをした場所へと向かった。
☆
肝試しのスタート地点となった階段に到着すると、彼女はあっさりと見つかった。
階段に腰を下ろした柊が、膝を抱えて座っていたのだ。
息を切らしながら柊の隣に腰を下ろすと、彼女が裸足であることに気が付いた。
「靴、履いてないじゃないか」
声を掛けてみるが、柊から返答はない。それでも彼女は、その場から逃げ去ろうとしない。
「怪我してないか?」
彼女の顔を覗きながら尋ねても、返答はない。それどころか、目を合わせようとすると逸らされてしまう。
「柊って走れるんだな」
何度も声を掛けるが、彼女は反応を示さない。もしかして嫌われてしまっただろうか。
「えっとその……さっきの見てたか?」
言葉を濁しながら尋ねると、彼女の肩がピクリと揺れた。今まで反応を示さなかった柊だったが、抱えている膝をグッと抱き寄せた。
「ザワザワってした」
柊の小さな声が、木々が揺れる音の中に落とされた。それを逃がすまいと、耳を傾けながら話す。
「ザワザワ?」
「湊と紬がちゅーしてるところ見て、心がザワザワってした」
それは不快感のようなものなのだろうか。それが分からず返す言葉に困っていると、柊は抱えている膝に顔を埋めた。
「紬のこと大好きなのに、湊と紬がちゅーしてるところ見て嫌な気持ちになった」
「だから逃げてここまで来たのか」
「うん」
今まで自分の感情が分からないと言っていた柊が、俺と桜瀬がキスしているところを見て嫌な気持ちになった。
自信過剰かもしれないが、それはもしかしたらヤキモチというやつなのではなかろうか。そうでなければ、ただ単に不快にさせてしまったかのどちらかだ。
「柊、俺と桜瀬はただの友達だぞ」
そう言ってみせると、柊は自分の膝から顔を上げて俺の顔を覗いた。いつもの無感情な顔である。
「ちゅーって、恋人同士でやるんじゃないの?」
純真無垢な目を向けられて、思わず目を逸らしてしまう。
「そう言われると弱いんだけどな……」
「友達同士のちゅー?」
「まあ友達同士のキスではあるんだけど、その言い方だと外国人の挨拶みたいだな」
冗談を言っても柊はくすりとも笑わない。まあ彼女を笑わせたことなんて、これまで一度もないわけだが。
「どっちからちゅーしようって言ったの?」
ヤキモチがどうのこうのというより、彼女の興味はキスへと移ってしまったのだろうか。
「それは……どっちも言ってないな」
「何も言ってないのにちゅーしたの?」
「まあ、そういうことになるな」
「どっちからしたの?」
「桜瀬だ」
「紬はなんで湊にちゅーしたの?」
「それは……俺にも分からない」
マシンガンのように繰り出される柊の質問攻めも、ここで落ち着きを見せた。
「私、変な感情だけはあるのかな」
「変な感情?」
「面白いとか楽しいとかは分からないのに、ザワザワって変な気持ちだけある」
感情の起伏のない声色だったが、俺には心の底からの叫びに聞こえた。
柊を壊れるくらいに抱きしめてやりたい。しかしそんなことなど出来るはずがないので、そっと彼女の手を握る。真冬の風に晒された彼女の手は、氷のように冷たかった。
「うーん、実は感情があるんだと思うぞ」
俺は確信を持って言うと、柊はこてりと首を傾げた。
「私に感情があるの?」
「うん、あくまでも俺の予想なんだけど、柊は感じた感情が喜怒哀楽のどれに分類されるのかが分からないだけだと思う。まあ喜怒哀楽の他にも、人の感情なんて数えられないくらいあるんだけどな」
そう言ってみせるも、彼女はキョトンとした顔をこちらに向けたまま固まっている。
「えっとだから……柊は俺と桜瀬がキスしてるところを見て心がザワザワしたって言ってたよな?」
「うん、言った」
「その心がザワザワしたって言うのは、喜怒哀楽で言うところの『怒』や『哀』に近いんだと思う」
「怒ったり、哀しんだり?」
「そうそう。あえて喜怒哀楽の中から選ぶとしたらだけど」
かなり噛み砕いて言ったつもりだったが、柊はまだキョトンとした顔でいる。
「だからだな……柊は俺と桜瀬のキスしてるところを見て、心がザワザワしたことにビックリしたからここまで逃げて来た。いきなり感情が湧き上がってきたことと、桜瀬に対して嫌な気持ちを覚えたことに驚いたんだよな」
あくまでも彼女の話したことを要約して得た俺の見解ではあるが、柊は少しだけ考えた素振りを見せたあと、静かに首を縦に振った。
「そうかもしれない。湊、天才?」
「ははは、期末テスト満点の柊には敵わないよ」
目を丸くさせる柊の頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
きっと撫でられている時も、柊の感情は何かしらの変化を見せていると思う。本人がそれに気付いたら、あとはそのままの感情を表に出さなくてはいけない。
柊が自分の感情を理解出来るまでの道のりは長そうだが、俺は何十年と掛かってでも手助けをしていきたい。
「湊、私にもちゅーして」
「はぇ?」
思いも寄らないリクエストに、マヌケな声が漏れた。
人間ホッカイロやお姫様抱っこなどを要求されたことはあったが、まさかキスまでしろというのか。
もちろん嫌というわけではない。むしろ嬉しい気持ちではあるが、友達から「キスをして」と言われて出来るような遊び人精神は持ち合わせていない。
「いや、恋人でもないのにそれは……」
「紬とはしたのに?」
それを持ち出されたら、ぐうの音も出ない。
キスをするかしないか。頭をグルグルと駆け回る二択を、両手で頭を抱えながら選ぼうとする。しかし答えなんて出せるはずがなく──
「わ、分かった。それじゃあ今じゃなくて、一年生が終わるまでにキスする。それでどうだ」
一年生が終わるまで、残り三ヶ月程度。それくらいの時間があれば、柊も忘れてくれるだろうと考えての作戦である。
柊は俺の顔をじっと見つめたまま何かを考えたあと、コクっと頷いた。
「分かった。一年生が終わるまでね」
「おう」
キスのプレッシャーから解放され、軽く伸びをしながら立ち上がる。
「それじゃあそろそろコテージに戻ろう。おんぶするから」
「おんぶ?」
「うん、その足じゃ危ないからな」
「ここまで走って来たから大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ。遠慮せずに、ほら」
さすがに山の中を裸足で歩かせるわけにはいかないからと、柊に背中を向けてしゃがみ込む。
「分かった」
目の前でしゃがみ込まれて観念したのか、柊は俺の首に腕を回して背中に体重を預けた。柊の柔らかな体を、背中で感じながら立ち上がる。
今頃桜瀬はどんな顔をしているだろう。ひな先輩と推川ちゃんにはなんて説明しよう。やや憂鬱な気分になりながらも、確かに足はコテージへと向かっていた。
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