黙ってばかりじゃない

 屋上へと登校する前に、学校に備え付けてある自販機で飲み物を買おうとしたら、間違って同じお茶を二本買ってしまった。

 五百円を投入してから、ボタンを二回連続で押してしまったのだ。今までは飲み物を一本購入するごとにお釣りが返却される自販機が嫌いだったが、この出来事のせいでいちいちお釣りを返してくれる自販機の方が良心的であることを実感した。


「まあ二本あって困る物でもないけど……」


 朝から三百円も自販機に吸い取られてしまい後悔の念にかられながら、屋上を目指して階段を上ろうとした時のことだ。どこかで聞いたことのある女子の声が聞こえてきた。


「だからアンタさぁ……いつまで教室に来ないつもりなの?」


「アンタが昼休み中に帰ってくのを見たって先輩が言ってたけど」


「いつまで被害者面してんだよ、泣きたいのはリレーメンバーから外された先輩だっつうの」


「まあアンタが陸部辞めたから先輩がリレーメンバーに戻れたんだけどね。おかげさまで陸部の空気がいいよ」


 その声だけで、声主の正体が分かった。きっと桜瀬をいじめていた女子集団だ。

 階段の壁に隠れて声のする方を覗いてみると、廊下の隅の方で見覚えのある四人の女子生徒が桜瀬を囲っていた。桜瀬はこちらに背を向けているが、あのサイドテールは彼女で間違いない。どうやら予想は的中していたらしい。


「また黙ってんのかよ、マジで腹立つ」


「ほんとほんと、今日は彼氏さん助けに来ないね?」


「彼氏にも嫌われたんじゃないの?」


「アンタの味方、もう居ないじゃん」


 ケタケタと笑い声を上げる女子生徒たちを前に、桜瀬は俯いたままだ。

 いつもの桜瀬なら、「彼氏じゃない」とすぐに反論しそうだが、そんな余裕はないようにも見える。


 ──早く助けなければ。


 その一心で、以前のように助けに入ろうと足を向けたその時。俯いていた桜瀬は顔を上げた。


「アンタアンタ彼氏彼氏うるさい! 何でアンタたちはいつもアタシに構おうとするんだよ! アタシはもうアンタたちのことなんて知り合いとも思ってないの! それなのにアタシのことを見つけてはぶつくさぶつくさうるせえんだよ!」


 今まで黙り込んでいた桜瀬が、廊下に響くくらいの大声を上げる。

 桜瀬が反論するとは思っていなかったのだろう女子たちは、皆ぎょっとした表情を浮かべている。そんな女子たちを前にしても、桜瀬は言葉を止めない。


「それともアンタらはアタシのこと友達だとか知り合いだとか思ってるから声掛けてくるの? そういう自意識過剰なところ昔から何も変わってないよ。ほんとに気持ち悪いからやめてくれる?」


「は? アンタが友達とか──」


「じゃあどうしていちいち話し掛けて来るの? アンタは知り合いでもない赤の他人に突っかかっては暴言吐くの?」


「テメェいい加減に」


「臭いから口開かないでくれるかな。いつもゴミ食べてるからそんな口の中が臭くなるんだよ。歯磨けよ、ブス」


 桜瀬とリーダー格のような女子が言い争いをしている。しかし言い争いとは名ばかりで、桜瀬が一方的に喋りたいことをマシンガンのように放っている。

 するとリーダー格の女子の隣に立っていた女子が、怯みながらも一歩前へ出た。


「アンタそれは言い過ぎじゃ──」


「言い過ぎだからなに? じゃあアンタたちがアタシに言ったことは言い過ぎじゃないの? っていうかアンタも口を開くな。性病が伝染るでしょ。このビッチ」


 桜瀬から怒涛の罵倒を食らった女子は次第に顔を歪ませ、遂にはその場で顔を俯かせたまま泣き出してしまった。

 これは違う意味で止めた方がいいのではないのかと考えたが、桜瀬は口から弾丸を吐くのを止めない。


「あれだけアタシにはボロクソ言ったクセに、ちょっと自分が攻撃されたら泣いちゃうの? どういう育ちしてればそんな人間になるのかなー」


 泣いている女子をオーバーキルしようとする桜瀬に向かって、一人の女子がビンタをしようと腕を振りかぶった。


「殴ってもいいけど負け認めてるようなものだからね?」


 その桜瀬の言葉に、腕を振りかぶっていた女子はピタリと動きを止めた。


「ふん、ほんとアンタらって単純ね。扱いやすいったらありゃしない」


 腕を振りかぶったまま動きを止める女子を嘲笑ってから、桜瀬はリーダー格の女子の後ろに立っている残りの女子に狙いを定めた。


「アンタもさっきまで威勢が良かったのにアタシが喋り出すと黙っちゃうタイプ? そういうところが日頃の練習にも出てるんだよ。百メートル十四秒? ははっ、赤ちゃんのハイハイの方が早いって」


 桜瀬の言葉を受けた女子は、またも泣き出してしまった。四人全員に言い返してみせた桜瀬は興奮しているのか、肩で息をしているようにも見える。

 仲間たちが二人も泣かされたリーダー格の女子は悔しそうな表情を浮かべると、桜瀬に向かって背を向けた。


「アンタ、本当に最低ね」


 リーダー格の女子はそう吐き捨てると、仲間たちを連れて廊下を歩いて行ってしまった。

 女子たちの姿が見えなくなるまで廊下に立ち尽くしている桜瀬の背後から歩み寄り、手に持っていたお茶を彼女の首筋にくっつける。


「ひゃっ!」


 今までの高圧的な物言いからはかけ離れた女の子らしい悲鳴を上げた桜瀬は、急いでこちらを振り返った。


「よう」


 目が合うなりなんて言葉を掛けていいのか分からなくて、咄嗟に出た言葉がそれだった。

 桜瀬は首筋を摩りながら、体をこちらに向けた。


「びっくりしたなー……あ、もしかしてさっきの見てた?」


「ちょうど今来たところだ」とはぐらかせる選択肢もあったが、嘘を突き通せる自信がないので、「まあな」と首を縦に振った。


「あはは、恥ずかしいところ見せちゃったね」


 気まずそうに微笑む彼女だが、恥ずかしいことなんて何もないと思う。


「いや、かっこよかったぞ」


「かっこよかった?」


「その……四人に囲まれてもあれだけ言い返せるのがかっこいいと思った」


 女子に向かってかっこいいと言うのもどうかと思ったが、桜瀬は困り顔を浮かべてから照れ笑いをした。


「褒め言葉として受け取っておくよ」


「まあちょっと言い過ぎだけどな」


「うるさいなー。それはアタシもちょっと思ったけど」


 口を尖らせる桜瀬に、ペットボトルのお茶を一本差し出す。


「ん、これくれるの?」


「ああ、プレゼント」


「誕生日は四月だけど」


「間違って二本買っちゃっただけだ」


 そう言ってもう片方のペットボトルを見せると、桜瀬は納得したように頷いた。


「そういうことか」


「うん、だから貰ってくれ」


 差し出されたペットボトルを両手で受け取った桜瀬は、顔一杯に笑顔を作った。


「ありがとう。湊」


 その曇りひとつない笑顔から、彼女は清々しい気分でいるのだろうなと容易に連想させた。

 心の中で「おめでとう」と祝う一方で、桜瀬だけは何としてでも怒らせないようにしようと、心に深く刻むことになった。

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