初めての相手
職員室からだと死角になるだろう場所を歩きながらグラウンドを突っ切り、保健室の扉の前に到着した。
「さて、それじゃあさっさと入っちゃうよ」
ひな先輩は保健室のドアノブを握り、音を立てないようにと慎重に扉を開いた。
扉はいとも簡単に開いたようで、ひな先輩はこちらに振り向くなり、興奮した顔を浮かべた。この三年生、無邪気すぎる。
「本当に開きましたね」
ここで扉が開かずにアタフタするかもしれないとも思ったが、そんな心配は無用だったようだ。
「推川ちゃんも生徒思いだねー」
「お礼言わないと」
隣に立っていた桜瀬と柊がボソリと呟いた。
「可愛い後輩たちよ。気付かれない内に保健室の中に入っちゃうよ」
「了解っす」「はーい」「うん」
ひな先輩の号令に、俺たち三人はそれぞれに返事を返すと、履いてきた靴を脱いで手に持ち、忍び足で保健室の中へと足を踏み入れた。
最後尾に居た柊がゆっくりと扉を閉めた。そこでようやく、夜の学校に侵入したという実感が湧いてくる。
「よーし、あとは階段を登って屋上に到着出来ればクリアだね」
ひな先輩はそう言うと、小走りで廊下側の扉を開こうとして手を止めた。
「どうしたんですか?」
桜瀬も歩いて扉へと近づこうとすると、ひな先輩が勢いよく振り返り口元に人差し指を当てたので、皆の足が止まった。
保健室内に沈黙が訪れる。すると、カツカツカツと誰かが廊下を歩く音が聞こえて来た。
「やばくない? 保健室に入られたらマズイよ」
心配そうな顔を浮かべながら、桜瀬は扉から一歩二歩と距離を取っていく。
「大丈夫じゃないか? 保健室に用がある先生なんかそうそう居ないだろ」
そう言いながらも廊下の様子が気になるからと、俺も扉に近づいて耳を澄ましてみる。
「わーん、瑠愛ちゃんどうしよー」
口ではそう言いながら柊に抱き着くひな先輩だが、彼女の表情はどこか楽しそうだ。
「見つかったらどうなるの?」
柊が首を傾げると、ひな先輩は「うーん」と唸りながら考えたあと笑顔を見せた。
「怒られるかな!」
「怒られるだけ?」
「うん! 多分!」
「多分」
ひな先輩に抱き着かれている柊は、目をパチクリとさせながら首を傾げている。
すると突然、背後から俺の服を誰かが引っ張った。
「ねえ湊、廊下の足音どう?」
服を引っ張っていたのは桜瀬だった。振り向いてみると、彼女はとても心配そうな表情を浮かべていた。
桜瀬は心配そうな表情、柊は無表情、ひな先輩は楽しそうな表情を浮かべていて、足音に対する感情はそれぞれだ。
「すぐそこまで近づいて来てるな、まあ通り過ぎるだろうけど」
「入って来たらどうしよう」
「さすがにそれは無いだろ……」
そう口にした時、すぐそこまで足音が迫ったので、口元に指を当てて声を発さないようにと皆に指示をする。
俺の指示に従って皆が口を閉じると、保健室の中にはカツカツカツという足音だけが反響する。
そしてついに足音が扉の前を横切ろうとした時、不意に足音が止んだ。保健室内には一瞬の静寂が訪れる。
「隠れろー!」
楽しそうな顔をしながらひな先輩が小声で叫ぶと、桜瀬は俺の手首を掴んで強引に引っ張り、掃除用具を入れるロッカーに詰め込んだ。すると一人でも狭い掃除用具入れの中に、桜瀬までもが入ってくる。
「お、おい」
桜瀬は軽くパニックを起こしているのか、そのまま掃除用具入れのドアを閉めた。
狭い掃除用具入れの中に高校生が二人入っているので、これでもかと密着することになる。桜瀬の胸やら太ももの柔らかいものが押し当てられ、身長差の関係から俺の鼻の近くにはいい匂いのする彼女の髪が押し当てられているので、強制的に匂いを嗅ぐことになる。
「これ、まずいだろ……」
「しょ、しょうがないじゃない……隠れるところはここしか思い浮かばなかったんだから」
桜瀬が喋ると、俺の首元に生暖かい息が吹きかかる。それがくすぐったくて、胸やら太ももの興奮材料も加わり、俺の息子が反応しそうになる。
──いや、待て待て待て。
ここでもしも息子を元気にさせてしまったら、確実に桜瀬は気付くだろう。そうなればこれからの屋上登校生活に支障が出る。
──落ち着け俺、我慢するんだ。
するとその時のことだ。保健室の扉がガラガラと音を立てて開く音が聞こえて来ると、室内の明かりが点いた。
「嘘……本当に誰か入ってきた……」
彼女の吐息が首を掠める。それだけで俺の性欲はそそられてしまう。女に生まれれば良かったと初めて後悔している。
どうにかして桜瀬から距離を取りたいが、少しでも動くと手に持っている紙袋がガサガサと音を立てるので動くことが出来ない。
「柊とひな先輩は大丈夫かな」
平常心を装いながら小声で話す。それでも俺の息子は今にでも元気になろうとするので、必死に気を紛らわせなければならない。
「どうだろ……見つかってたら今頃怒鳴られてるだろうから大丈夫だと思うけど」
「たしかにな。というかこんな時間に保健室に用がある先生とか怪しくないか?」
「そうだよね。何の用があって来たんだろう。ねえ湊、そこら辺から外を覗ける穴がない?」
「穴? ああ、あった。けど俺じゃなくて桜瀬の頭の上にあるぞ」
桜瀬の頭の上には、縦に四本の線をした外を覗ける穴があり、そこから保健室の明かりが掃除用具入れの中に漏れている。
「アタシの上かー。湊、頑張って覗けない?」
「覗けないことはないけど、桜瀬の顔を俺の体で潰すことになるぞ」
「それは嫌かも」
「だよな」
桜瀬と会話をしている間も、保健室に入って来た人は何かを作業しているようで、ゴソゴソと音が聞こえる。
「じゃあアタシが外の様子を見るから」
「どうやって」
「背伸びするしかないでしょ」
桜瀬はそう言うと、その場で背伸びをして器用に穴を覗き出した。そのせいで彼女のサイドテールが俺の顔に押し当てられる。すっごくいい匂いだ。
「あっ……推川ちゃんだ」
桜瀬の匂いに脳が痺れそうな思いをしていると、彼女は背伸びをしたままこちらを振り向いた。
そのせいで顔に押し当てられてたサイドテールの代わりに、何か柔らかいものが唇に触れた。
「んっ……」
桜瀬はどこか色っぽい声を漏らした。そこでようやく俺の唇に触れている柔らかなものが、彼女の唇であることが分かった。しかし、時すでに遅しだ。
掃除用具の中で桜瀬と交わした口付けが、俺のファーストキスとなったのだ。
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