トイレまでの道のりは長い

「あっはははは! それは災難だったわね」


「笑いごとじゃないよ」


 屋上を追い出されたことを推川ちゃんに話すと、コーヒーの湯気が昇るマグカップを片手に笑われた。

 そんな彼女を横目に、俺は自分の机で頬杖を突いた。


「生徒は二人だけ?」


「見たところ二人だけかな。テントの中までは確認しなかったから」


「そっかそっか」


 美容院に通い詰めて手に入れたと言っていたツヤツヤの髪を手ぐしで整えながら、コーヒーをズズっと音を鳴らして口にした。

 俺はスクールバッグから数学の教科書とノートを取り出し、机の上に並べた。


「まあ俺は嫌われたっぽいので関係のない話になったけど」


 悪いことをした覚えはないが、あんなに血相を変えて追い出されたということは、嫌われたと思う他ないだろう。多分、俺の見た目のせいであるが。

 またもため息が口から漏れると同時に、頬に冷たい物が触れた。横に立っている推川ちゃんの人差し指が、俺の頬をつついているのだ。


「そう不貞腐れないの。いつかきっと仲良くなれると思うから、その時までは……ね?」


 それを口にしている間も頬を人差し指でつつかれるので、鬱陶しくなり彼女の指を優しく払い除けた。というかまず、不貞腐れてはいない。


「そんな日が来たらいいですね。あんまり期待しないで待ってます」


 しかし俺の口から出てきたのは、拗ねた子供のような口調だった。


 ☆


 屋上の件から数日が経ち、追い払われたことなど忘れかけていたある日。事件は起きた。


 いつも通り保健室で授業時間を過ごし十分休憩の時間になったので、保健室の近くにある教職員用のトイレに向かおうと廊下を歩いていると、女子生徒が五人程固まって大声を上げていた。


「うわ、通りづら」


 保健室がある校舎の一階は職員室や来客用の教室があるフロアなので、他の生徒と遭遇しないのが半不登校の俺にとってはありがたかった。

 しかしたまに、わざわざ一階に降りてくる生徒が居るのだ。そういう時は決まって道を引き返して保健室に退避していたのだが、今は尿意がすぐそこまで迫っている。

 仕方がないからと女子集団が固まる側を早足で抜けようとすると、そこで交わされていた会話が耳に止まった。


「アンタ、クラスに顔出さない癖に学校には来てんの?」


「マジでそういうの無理なんだけど。それじゃあまるで私たちがアンタをいじめたみたいじゃない」


「別にいじめてないよね? ってか先輩の晴れ舞台を奪ったんだからアンタの方が悪いよね」


「そうそう。だから家で反省してるのかと思ったら、澄ました顔して学校来てんじゃねーよ」


 胸糞の悪い話しに、自然と足が止まった。通り過ぎた女子集団の方を振り返ると、そこに居た女子の顔を見て驚いた。


「あいつ……あの時の……」


 数日前、俺を屋上から追い出したサイドテールの女子だ。しかし今の彼女に屋上の時のような威勢はなく、ずっと床を見たまま俯いている。どうやら四人の女子生徒から罵声を浴びせられていたのは、あのサイドテールの女子で間違いないらしい。


「ねえ、なんか言ったらどうなの?」


「ずっと黙ってればウチらが帰ると思ってるんじゃね」


「本当にキモい」


「そんなにウチらのことが嫌なら転校すればいいじゃん」


 うん、これは部外者の俺でも分かる。さすがに言い過ぎだ。

 このまま見なかったことにしてトイレに駆け込むことが、俺にとって最善の選択肢であることは分かっている。しかしサイドテールの彼女とはちょっとした顔見知りでもあるため、見過ごす選択肢だけはどうしても取りたくなかった。

 いても立ってもいられず、来た道を引き返すようにして女子集団の間に向かって歩き出す。


「あれ、こんなところで何してんの?」


 知り合いを装って女子集団の輪の中にずかずかと入っていき、名前も知らないサイドテールの彼女の肩に腕を回す。急なことだったので、彼女の肩がピクリと跳ねた。


「あ、あの時の……」


 俺の顔を見上げた彼女は、小さな声を発した。どうやら思い出して貰えたようだ。

 そして肩を組んでいるせいで、彼女が小刻みに震えているのも伝わってくる。


「何よアンタ、一年生だよね?」


 そう尋ねる女子集団の上履きのつま先の色も赤色だった。これで遠慮なくタメ口を使える。


「そうだけど。君たちはウチの子になんの用?」


 女子集団はそれぞれに「ウチの子……?」と口にすると、その中の一人が俺を指さし、仲間たちの間でヒソヒソ話を始めた。


「この男、ヤンキーの人だよ」


「あ、二組に居たけどすぐに来なくなった人?」


「そうそう。きっとその人だよ」


「じゃあなに、この男はアイツの彼氏ってこと?」


 憶測に憶測を重ねていった女子生徒たちは、こちらに体を向けたまま数歩後ずさると、キッと睨みを利かせた。


「そうやってアンタは男に守られて生きてればいいよ」


 リーダー格のような女子が吐き捨てると、四人は踵を返して早足で歩き出し、近くにあった階段を登っていった。

 それを確認したあと、彼女の肩に回していた腕を下ろす。


「ありがと」


 女子生徒を追い払ったあとのことを考えていなかったので、ちょっとした気まずさを感じていると、彼女の方から声が掛かった。しかし彼女の視線は床に落ちたままだ。


「いや、全然いいけど」


 二人で同じ方向に体を向けたまま短い会話を交わし終えると、廊下には沈黙が訪れた。

 さすがにこれは気まずい。軽くやり取りは交わしたことだし、トイレに行くからと理由を付けてこの場を立ち去ろうとすると、彼女は俺の顔を見上げた。その表情は数日前に見た鬼のような形相ではなく、雨に晒された捨て猫のような顔だった。


「ちょっと着いてきて」


 予想外のことに、脳内にはクエスチョンマークが浮かび上がる。そんな困惑している俺を置いて、サイドテールの彼女は振り向きもせずに歩き出した。

 すっかり引っ込んでしまった尿意のことなど忘れ、少し遅れて彼女の背中を追うように足を動かした。

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