第30話 先行

「大丈夫か?」

「シャルムには、俺が大丈夫なように見えますか?」

「見えないな」


 馬車から引きずり出された時には、俺はよだれと涙と吐瀉としゃ物でドロドロになっていたらしい。


 シャルムが水をぶっかけて洗い流し、乾かしてくれたのだそうだ。


 漏らさなかったのが唯一の救いだ。


 御者は馬車の内装をベリベリとはがし、新しく張っている最中だった。準備万端というより、日常茶飯事なんだろう。


「朝飯食わなけりゃよかったな」

「……全部出ました」


 リズがもぐもぐと美味しそうに肉を頬張っている。


 今は昼休憩らしく、俺にも昼食が振る舞われたのだが、全く手をつける気になれなかった。食べればまた口から出すことになるだけだ。


 周囲を見渡せば、そこは草原のど真ん中で、遠くに見張りの憲兵がいるのが見えた。


 街道は見えない。


「女王陛下のご加護を離れたんですか?」

「突っ切った方が早い。そのための護衛だ」


 後ろで、ドォンと音がして、土煙が上がった。戦闘が始まったらしい。


「それにしたって、自分からご加護を離れるなんて……」

「あのなぁ、ノト、これはお前を最速でバルディアに送り届ける策なんだぜ? 最短距離で進んで、獣がいりゃおとりを置いて先に行く。なのにお前がそれを否定してんじゃねぇよ」

「そんな……なんで……」

「陛下がすみやかにとおっしゃったのならば、次の瞬間には実現しているべきだ。できないのなら、可能な限りそれに近づける。例えそれがご命令でなくとも、我ら国民をお守り下さっている陛下のお言葉ならば、全力を持って応えようとする。僕はそうだ。お前もそうだろう?」

「それは……。そうですね、女王陛下の治めるこの国にいれば、他国のように怯えて暮らすことはありませんから。俺たちの生活のすべては、陛下が玉座に有らせられるからこそです」


 俺のためでなく、陛下の御為おんためならば。


「……ぅがなんだってんだ」

「え?」

「なんでもねぇよ」


 重い足取りで馬車に乗り込み、次に目を開けた時には、日がとっぷりと暮れていて、どこかの街門の内側にいた。


 まともに歩けないままどこかの宿に運び込まれ、ベッドに寝かされたあと、また気を失ったらしい。二度目に気がついたときには、大きな月が窓から俺を見ていた。


 さすがに夜は街に入るんだなとぼんやり考えた。


 女王のご加護を離れたまま、あの大人数で野宿すれば、そりゃあ大変なことになるだろう。


 喉の奥がひりひりとする。体を動かすと、節々がきしんだように痛む。


 時間がたって神経の高ぶりが治まったからだろうか、無茶な戦闘をしてギリギリ生き残ったあとのような、強烈な無気力感に襲われていた。


 死んでもおかしくない。それくらいひどかった。拷問ごうもんに用いればなんでもしゃべってしまいそうだ。


 運んでいるものを壊してしまうのは、乗り物として致命的だろ。


 俺も憲兵の前に乗せてくれないだろうか。


 ……わかってる。俺が乗ると重量オーバーなんだよな。四頭繋げてカゴと一人分の重量を支えるくらいだから。


 元々あれは一人乗りなんだ。あんなところに二人以上が入ったら、互いにドツキ合ってそれこそ死んじまうわ。


 こんなんだったらエルマキアの乗り方練習しとくんだった。


 つっても必要じゃなきゃわざわざやらないよなあ。


 明日もあれか。


 いったい何日続くんだ。


 水でも飲もうと起き上がり、テーブルの上の水差しを手に取ると、床に背負い袋、剣、そしてナイフがあるのを見つけた。


 ナイフは同じ向きに、大きさ別にきれいに並んでいる。


 たぶんリズがやってくれた。


 それを見て、思った。


 何のためにこんなにつらい思いをしてるんだ?


 女王陛下の勅命を賜ったから。


 なぜ陛下はそのようなお言葉を?


 おそらく、ドラゴンが国民の生活をおびやかそうとしているから。


 陛下のお望みは?


 俺がすみやかにバルディアに行くこと。


 なら――。


 俺は背負い袋の中を確認した。全部そろっている。少しなら野宿もできる。一人なら自分さえ守れればいいのだから、ご加護の下にいなくたってカンタンだ。


 紙と筆、インク瓶をいくつか取り出して、テーブルの上に並べる。一つに血を混ぜてから、魔法陣を描いた。簡単に描けるものを何枚も。


 道具は背負い袋の中へ。ナイフも元の場所へ収納していく。魔法陣も袋の中に入れたが、何枚かは服の隠しポケットに入れた。


 窓を開けて下をのぞき込む。月明りで十分見える。


 暗視は要らないな。しばらくは魔法陣を温存できそうだ。


 俺は窓のさんに飛び乗り、部屋から飛び出した。


 テーブルの上には、一枚の紙。


 『先に行きます』

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