繫栄の足元にあるモノ⑥


 五年前までこの孤児院は今のように貧窮ひんきゅうした状況ではありませんでした。


 子供たちには綺麗な衣服を、お腹を満たすたくさんの食べ物を、教養を積むための多くの本を、およそ生活に必要なものをいつでも必要なだけ用意することができました。


 それもそのはずです。この孤児院は他ならぬレドアルコン家から出資を受けていたのです。


 王家の支援が始まったのは今から十年前。王家に目をかけて頂いたおかげで、それに連なる貴族たちからも支援を受けることができました。


 その結果、この孤児院は他のどの施設よりも充実した生活を子供たちに送らせることができるようになったのです。


 しかしそれは無償の施しではありませんでした。


 二年後、王家を初めとする方々はこの施設で生活していた一人の少女を対価として求めました。当時まだ十歳の子供です。


 支援して下さる方々が彼女に何を求めているか察した私は当然その要求をお断りしました。


 しかし、ならば支援を打ち切ると圧力をかけてきました。


 支援を打ち切られてしまえばここで生活している子供たちが食べていけなくなってしまう。すでに施設の運営を支援金に依存していた私に選択の余地はありませんでした。


 私にできたせめてものことは、複数の貴族が彼女を欲していることを利用し、彼女をこの孤児院から出さないことを条件付けることだけでした。


 彼らにとって孤児は玩具です。死なない程度の肉体の損壊は平気でします。いずれかの貴族に独占されてしまえば、彼女が壊されてしまうことだって十分にあり得る。


 彼女を独占すればその貴族は他の貴族から反感を買うことになります。貴族社会のしがらみは時に家を没落させることもあり、それは王家であるレドアルコン家も無視できるものではありません。


 彼女を欲しがる彼ら自身が互いに牽制し合うことで、彼女の身が傷つけられることだけは避けようと考えたのです。


 私の想定した通り、彼女を独占することで他の貴族から非難されることを恐れた彼らはその条件を受け入れました。そして互いに見張り合い、文字通り彼女の身体を傷つけるような残虐な行為は行われませんでした。


 そうです。私ができたのはそれだけです。彼女の心までは守れなかった。


 毎晩のように貴族の男が彼女の部屋を訪れました。そこで何が為されていたのか、壁越しに聞こえてくる彼女の泣き叫ぶ声から明白なことでした。


 私は何もしませんでした。


 十歳という幼い心が深く傷ついているのに。


 それを癒すどころか。


 他の子供たちを守るためだと自分に言い聞かせ。


 一人の子供が泣き咽ぶ声に耳を塞いだのです。


 次第に彼女は部屋に引きこもるようになって、その存在を確かめる手段は夜な夜な聞こえてくる声だけでした。


 そしてあろうことかそんな日々に慣れてしまい、三年の時が過ぎました。


 彼女の部屋の前を通ったとき、ドア越しに啜り泣く声が聞こえたのです。後ろめたさからずっとその姿を目にしていませんでしたが、その声は私の胸を強く締めつけました。いても立ってもいられなくなり、ただの自己満足であることは承知で、それでも彼女に謝罪したくてドアを開けました。


 彼女の姿を見て私は愕然としました。


 大きく膨らんだ彼女の下腹部。そこに命が宿っていることは明らかでした。


 ずっとずっと泣き続けていたのでしょう。目は赤く腫れて、締め切った薄暗い部屋の中でも涙の跡がはっきりと見えました。


 部屋に入ってきた私を見ると、彼女は怯え切った顔で部屋の奥へと後退ります。



 ――もうやめてください。許してください。



 彼女は何度もそう懇願して首を横に振ります。


 後悔という言葉ではとても足りないほど後悔しました。なんてことをしてしまったのだろう。他の子供たちのためと言いながら一人の子供に望まないことを強いてしまった。


 怯える彼女に許しを乞いました。許されないとわかっていましたが、それでも許しを乞いました。彼女の前に跪き、泣きながら許しを乞いました。


 いつまでそうしていたのかわかりません。ずっとずっと彼女に謝り続け、涙を流し、許しを乞い続けました。


 そして彼女の方から歩み寄ってくれたのです。他の子供たちのためだと欺瞞に満ちた私の偽善を、彼女は許すと言ってくれたのです。


 私は感極まりました。このような私を許してくれた。彼女を売った私を許してくれた。心に深い傷を負ってなお彼女は私を許してくれたのです。


 しかし私は彼女のその慈悲さえも裏切った。


 彼女の目を見た途端、抗い難い感情が湧き上がってきたのです。私はそれに抗うことができず、気づけば彼女を組み敷いていました。


 そこから途中の記憶はありません。


 覚えているのは、着衣を乱し啜り泣く彼女の姿と涙に濡れた翡翠の瞳の色だけでした。

 

 

 



 

 

 

 語り終えたゾルアは片手で顔を覆い、涙と後悔で顔を歪めた。



「私は、彼女を売り、それを許してくれた彼女を裏切った。聖職者でありながら欲望に負け、彼女に深い傷を負わせてしまったっ。私はっ、償うことの出来ない罪を犯したのです!」


「それで、その子はどうなったんだ?」


「いまはとある女性に引き取られ、その方の元で生活をしております。お腹の子は双子として生まれ、この孤児院で生活をしております」



 それがあの双子のことを指しているのはすぐにわかった。そしてあの二人の容姿。髪と目の色、そして今の話から『彼女』が誰であるか確信する。



「あの二人の母親は、レイだな」


「……やはり、彼女をご存知なのですね」


「ああ、この都市に来て知り合った。俺の顔を見るだけで怯えていた」


「私の、せいです……」


「そうだな。あんたのせいだ」



 それだけの目に遭って男が怖くないはずがない。数年に及び弄ばれ、誰も助けてくれず、けれど最後に信じようとした神父にさえも裏切られた。


 想像を絶する苦しみだっただろう。



「ティアノラ博士と同じく、貴方も厳しい御方ですね」


「たくさんの子供たちのためにレイを犠牲にした。男を恐怖するようになったのは、あんたがレイを守らずさらに傷をつけたからだ。あんたの選択の結果なるべくしてなった。事実だろ」


「……はい」


「だがそのあとの努力は評価する」



 輝の言葉にゾルアは顔を上げた。



「アレックスが言うには、あんたのおかげでこの孤児院では誰も欠けていないんだろ? 資金不足で誰かが売られることもなく、貧しいながらも生きていくことができている。ならそれはあんたの成果だ。もう誰も犠牲にしないために努力して、その結果あの笑顔を守れてるなら評価できることだろ」


「…………私は、許されるのでしょうか?」


「知るか」



 当たり前のことを聞くな。そう告げるように輝はゾルアを突き放した。


 子供たちが楽しげに遊ぶ声が響く中、男の嗚咽が風に溶けていく。







 

 

 教会を後にした輝たちは裏区画を見て回った。


 下の方に行くほど空気が悪い。そこに住む人間は目に生気がなく、誰も彼もが死体に見えた。街道を歩く人間も目が濁りきっており、魔獣の『喰屍鬼』グールと見紛うほどだ。


 廃墟同然の建物から聞こえてくる悲鳴や嬌声は、中で何が行われているかそれだけで想像できる。時折向けられる下卑た視線は自分たちをそういう目で見ているのだろう。


 さらに奥へ進むと『アイゼン鉱脈』の坑道が見えてきた。そこでは大勢の労働者が働いている。全員が首輪を取り付けられており、中には転生体の姿も多数見受けられた。


 あの首輪は奴隷の証だとイリスは言っていた。


 奴隷はみな疲労の色が濃い。鉱石の詰まった重いズタ袋を担ぎ上げ、フラフラとおぼつかない足取りで運んでいる。


 働く奴隷を監視する監督役が何かを叫んでいる。転倒して鉱石をぶちまけようものなら、手にした警棒で奴隷を容赦なく殴りつけていた。


 駆け出しそうになった足をぐっと抑える。ここであの奴隷だけを助けても、問題が大きくなるだけで何も変わらない。


 やりたくもない見て見ぬフリをして、輝はその場を離れた。


 プレハブのようなものがいくつも乱立している場所に辿りついた。


 どうやらここは奴隷の居住区らしい。しかしその生活環境はあまりにも劣悪。家となるプレハブは雨風を凌げるかどうかも怪しい作り。生活で発生したゴミや糞尿は適当な穴に放り込んでいるだけできちんと処理されておらず、一帯に酷い異臭が漂っていた。


 奴隷たちは輝とアルフェリカを見て様々な反応を見せる。敵意を持つ者、怯える者、傍観する者、向けられる感情は総じてネガティブなものばかり。


 試しに声をかけてみても目を逸らされる。誰も目を合わせようとしない。近づこうとすれば距離を置かれるか怯えられる。


 奇異の視線を向けられながら、さらに歩くとさらに別の臭いがした。


 この臭いを輝はよく知っている。


 臭いが強くなる方へ歩いていくと、大きな穴がいくつも掘られた場所に出た。穴の直径は二メートルほど。臭いは穴の中からしていた。


 覗き込めば穴の中には予想した通りのものがあった。


 深い穴の底に投棄されているのは死体。長期間放置された死体はグズグズになっており、腐臭が滞留している。男の死体。女の死体。子供の死体。赤子の死体。大人の死体。老人の死体。


 死体、死体、死体。死体。――死体ばかり。


 腐りきった屍肉を野鳥がついばみ、散乱した肉片に蛆や蝿がたかる。まだ比較的新しい死体には悍しいほどの傷痕が刻まれている。


 そして――そのどれもに首がない。



「うっ」



 ドロドロに腐り落ちた死体に耐えかねたアルフェリカが嘔吐した。


 無理もない。少しでもまともな神経を持っていれば、こんなもの直視できるようなものではない。


 ここは死の廃棄場だ。



「これが『オフィール』か」



 裏区画の醜悪さは想像を絶していた。


 腐敗しきった生き地獄。人間はただの消耗品。土を掘り、鉱石を採取するだけの採掘機械。転生体に人権などなく、あるのは不条理な抑圧と理不尽な蹂躙ばかり。


 表区画の人間は重税に苦しみ、税が払えなければ奴隷に堕とされる。


 それを避けるために子を売り払う親もいる。奴隷に堕ちた者はもう人間として扱われず、男も女も幼子も老人も区別なく、ただただ使い捨てられる。


 奴隷から生まれた子も人間ではなく、生を受けたその瞬間から苦しみを宿命づけられて道端に打ち捨てられる。


 たとえあの孤児院の子たちのように拾われたとしても、貧しい生活を強いられることに変わりはない。


 宿へ戻るために表区画を歩く輝たちは互いに口を開かなかった。道を往来する者たちの顔をぼんやりと眺める。


 市場を見たときに感じた違和感は『オフィール』を覆う影だったのだと確信した。


 転生体は首輪をつけられペット扱い。奴隷は使い捨ての道具。貴族は平民を下等生物としてみなし、その貴族自身は人間の被った悪霊の類。人間と呼べる者たちはそんな者どもに搾取されて希望を奪われる。


 はっきりと理解した。


 この都市は腐りきっている。

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