新雪の乙女⑧


 早速、輝とレイは都市に繰り出した。善は急げとほとんどティアノラに追い出されるような形になったので、準備も何もあったものではない。


 石の道を靴がカツカツと叩く音が妙に大きく聞こえる。


 レイは輝の後ろを三歩引いてついてきていた。足取りは重く表情は暗い。話しかけてもあまり会話は続かず、沈黙の時間の方が長かった。



「なあ、やっぱり引き返した方がいいんじゃないか?」


「い、いいえ……だい、じょうぶ……です……」



 ふるふるとレイは首を横に振る。すでに何度もこのやり取りを繰り返している。どう見ても大丈夫そうには見えないのに、レイはかたくなに案内を辞そうとしない。


 勇気を振り絞っているのはわかる。しかし無理が続くようであれば、耐えかねてどこかで折れてしまうかもしれない。いくら本人の意思を尊重するといっても、物事には順序というものがある。


 だからと言ってあまり言い過ぎても本人のやる気を削ぐことになりかねない。過度の心配は彼女の自立を阻害することにもなるだろう。


 悩ましいが、結局はレイの意思を尊重するしかなかった。



「せめて、笑ってはもらいたいな」



 一緒にいるレイはずっと表情が固いままだ。笑顔を一度も見せていない。もう少し自然体でいられるようになった方が良いに決まっている。


 感情の機微に疎い自分がその役目を果たせるのかは怪しいが、それを目標にこちらも頑張ってみよう。


 彼女だけが頑張るのも不公平というものだ。



「それで、どこから案内してくれるんだ?」


「あ、はい……えっと、どこか……見たい場所は、ありますか……?」


「そうだな。とりあえず車のメンテナンスが終わるまでは宿で寝泊まりする予定だから、そういうところがある場所と、あと食料とか生活用品を補充できるところは確認しておきたいな。それで時間が余るようなら、おすすめスポットとか教えてくれないか」


「わかりました……では、先に市場を……ご案内します。その近くに、宿泊施設が集まる区画がありますので……そちらに行ってみましょう」


「ああ、よろしく頼む」



 後ろを歩くレイにナビされながらしばらく歩いていると、見かける人間の数が少しずつ増えてきた。都市の中心部に近づくに連れて背中から聞こえてくるレイの歩調が遅くなっていく。


 立ち止まって振り返るとレイは胸の前で両手を握っていた。視線は地面を向いており、頬には冷や汗が一筋伝っている。


 輝は周囲に目を配った。都市なのだから人間がいるのは当たり前。しかしすれ違う異性の視線は常にレイに注がれている。皆、美しい少女に見惚れている。


 輝は何も言わない。最後の確認はもう済ませてある。あとはレイが前に進むか後ろに戻るかの選択だけ。これ以上の口は挟まない。全て彼女の意思に委ねる。


 一分ほど無言の時間が続いた。そしてゆっくりと、レイは足を踏み出す。



「……お待たせして、申し訳ありません。行き、ましょう」



 視線を合わさないまま輝の前まで来た。



「一歩、進めたな」



 輝のかけた言葉にレイは顔を上げた。その拍子に二人の視線が絡む。


 咄嗟に顔を背けながら手で目を覆った。目が合ったのは一瞬だったので【魅了】の効果はほとんど受けていない。



「その調子なら必ず克服できるさ。もし変なヤツが近づいてきたら俺が追い払ってやる」



 もしものときのために機械鎌を持ってきている。仮に【魅了】された者が襲い掛かってきても撃退できる。


 いくら守ると言い聞かせたところで、隣にいる輝が男という時点で安心するのは難しいだろうが。



「……はい」



 頷いて、ぼうっとレイは輝を見つめた。



「あの、レイ……悪いんだけど、目はまだ合わせないようにしてくれるか? それだけ強力な【魅了】だと【抵抗】レジストできない可能性があるからさ。数秒程度なら大丈夫だけど」


「あっ、す、すみません……」



 堪らず目を覆った輝にレイは頭を下げながら顔を逸らした。ほっと安堵しながら視界の端で彼女を見てみれば、なぜか当の本人は恥ずかしそうに両手で頬を包んでいる。


 この仕草も一つの【魅了】なのだろうな、と思っているとフラフラと男性が近づいてきた。それも一人や二人ではない。


 即座に気づいた輝は鋭い眼光を彼らに飛ばした。


 睨みつけられた男たちはその瞬間に我に帰り、気まずそうに目を逸らしてその場から去っていく。


 どうやら軽く【魅了】された程度ならば、それ以上の刺激を与えることで対策になるらしい。遠巻きにレイを眺める男たちはそこまで警戒しなくても良さそうだ。


 今の一連の流れを見ていたレイがおずおずと尋ねてくる。



「あ、あの……もう少し近づいても、よろしいでしょうか……黒神様のお側の方が、その……」


「俺で虫除けになるなら構わないよ」


「虫除けだなんて、そんなつもりでは……」


「単なる比喩だ。別に意地悪で言ってるわけじゃないからそんなに気にするな」


「そ、そうでしたか……すみません、その、殿方とは、お話をしたことがあまりなくて……」


「俺も口下手だから似たようなものだ」



 笑いながらそう言って輝は歩き出した。レイはその二歩後ろをついてくる。


 少しは信用してもらえたということなのだろうか。


 それから、当初の希望通り二人はまず初めに市場にやってきた。


 道中、幾度となく人間とすれ違ったが、文字通り睨みを利かせるだけで対応は十分だった。代わりに男どもの怨嗟のような視線が刺さるようになったが、レイの安全と引き換えなら安いものだ。


 喧騒けんそうに包まれた市場はそれなりに賑わっている。食料品、衣類、家具、調度品などなど。様々な露店が所狭しと並ぶ様はただ眺めているだけでも目移りする。


 出店から漂うこうばしい匂いには空腹を刺激された。夕刻前ということもあってか主婦の割合が多く、その客を呼び込もうとあちこちから声が飛び交っていた。


 ここを見て回るだけでも退屈しなさそうだ。


 ただなんとなくレイと似たようなものを感じた。


 何かに怯え、それをなんとか抑え込もうと無理しているような、そんな違和感。そう思って見ると皆の笑顔にも影があるように思えた。


 輝はあまり気に留めなかった。今はもっと別の問題を気にしなければならない。


 その問題とは人間――厳密には男の多さ。理想郷のセンター街ほどではないにせよ、人混みと呼べるだけの人数がこの場に集まっている。

 

 レイの存在に気づいた男たちは、まるで獲物を狙う肉食獣のようにじっとレイを見つめているのだ。文字通り睨みを利かせれば男たちは視線を逸らすが、それでもキリがない。


 レイを連れて四方八方を人間に囲まれた市場を歩けば良くないことが起こりそうだ。


 注目を浴びるレイ自身、恐怖に肩を震わせている。


 できればどのようなものが並んでいるのか見て回りたかったところだが、それは後日にした方が良いだろう。



「もしかしてレイちゃん?」



 市場から離れる決心をしたとき、誰かがレイを呼んだ。あまりに近くからの声に、しまった、と思いながらその人物を睨みつけ、相手が女性だということに気がついた。


 買い物かごを持っているということは市場で買い出しをしていた主婦なのだろう。年齢は三十前後といったところだろうか。おっとりとした雰囲気を醸し出すその女性はレイを見て目を丸くしていた。



「あらあら、レイちゃんがこんなところにいるなんて珍しいのね。博士やイリスちゃんたちは一緒じゃないの? もしかしてはぐれちゃった?」


「アンジェラさん。いえ、今日はこちらの方に都市を案内しているところでして」



 輝のときとは違い、流暢りゅうちょうに話すレイが手のひらで輝を指した。


 本当に男だけが駄目ということか。そんなことを考えながら、輝は軽く会釈する。



「あら、あらあらあらあら! レイちゃんがっ、レイちゃんが男の人を連れてるわ!」



 よほど驚くことだったのだろう。アンジェラの声が市場に響いた。


 それを聞いた民衆が一斉にこちらの方に向いた。男性だけではなく女性も含まれている。


 然しもの輝も少し身構えた。



「ア、アンジェラさん、声が大きいです」


「ごめんなさい。でもびっくりしたんだもの。男嫌いのレイちゃんが男の人と一緒にいるなんて。博士やイリスちゃんたちがいないってことは二人っきり? っていうことはデート? あら、もしかして私ったらお邪魔しちゃったかしら」



 目をキラキラと輝かせるアンジェラは絶対にゴシップネタが好きだ。


 アンジェラはガシッと輝の両手を掴んで顔を寄せてくる。



「ね? ね? 貴方ここでは見ない顔ね。旅の人? レイちゃんとどうやって知り合ったの? どうやってレイちゃんのガードを超えたのかしら? ううん、そんなことはどうでもいいわ。レイちゃんを大事にしてあげてね。知ってるだろうだろうけど、レイちゃんは男の人が大の苦手なの。でも貴方に心を許したっていうことは、それだけ貴方はレイちゃんにとって特別な人なのよ。貴方が自分で思っている以上にね。だからレイちゃんを泣かせるようなことだけはしないでね。大事に、大切にして、レイちゃんを幸せにしてあげてね」


「いや、あの……」


「ああ良かったわ、レイちゃん。こんなに可愛い子に浮いた話の一つもなくて。このまま人を好きになることも知らないまま生きていくのかもしれないと思ったら心配で心配で。でももうそんな心配は必要ないのね。貴方――えっと、あら、貴方のお名前は? 私はアンジェラよ」


「く、黒神輝だ」


「くろがみひかる? 東の地域の名前なのね。じゃあひぃちゃんね」


「ひぃちゃん……」



 浮かべた笑みが引きる。そんな呼ばれ方をしたのは初めてだ。



「ひぃちゃん。レイちゃんをお願いね。レイちゃんはね、私たちにとっては可愛い妹みたいなものだからちゃんと幸せにしてあげて。泣かせたらめっだからね」


「アンジェラ、ちょっと落ち着いてくれないか」



 機関銃さながら、止まらないアンジェラに気圧されながらもなんとか話に割り込む。



「あら、年上のお姉さんを呼び捨てにするなんてめっよ」


「……アンジェラさん」


「うん、素直でよろしい」



 アンジェラは満足そうに頷いて手を放す。本当は輝の方が遥かに年上なのだが、そんなことをいちいち説明しても仕方がない。



「ほっほう……あれだけレイちゃんには近づくなと言ったのに、数時間もしないうちにこれですか……」



 聞き覚えのある声が聞こえた。それが誰のものか把握したと同時、輝の頭上に影が落ちる。


 見上げればそこには甲冑の乙女がいた。


 イリス=ファーニカ。『鋼の戦乙女』アイゼンリッターの少女。


 剣を振り上げて自由落下してくる。何をするつもりなのかは一目瞭然だ。


 機械鎌を抜いて振り下ろされた剣の刀身を打ち払った。軌道を逸らされた剣はそのまま足元に叩きつけられて石畳に亀裂を入れる。


 奇襲が失敗に終わった騎士は忌々しげに舌打ちした。



「なんで避けるんですか!」


「誰だって避けるわ! 殺す気か!」


「あったりまえじゃないですか! レイちゃんをたぶらかすなんて万死に値します! っていうかそもそもどうやって誑かしたんですかこのすけこまし! じゃなきゃレイちゃんが男と二人で歩いたり、あんな真っ赤になって恥じらうわけがないじゃないですか! 何したんですかまさか脅したりしたんじゃないでしょうね! さあ洗いざらい話してもらいますよ! って剣が抜けないじゃないですか! さっさとその足どけてくださいよ!」



 輝は剣の刀身を踏みつけて地面から抜けないように押さえつけていた。街中で武器を振り回すなど危険極まりない。


 ふしゃあぁー、とまるで猫のように威嚇してくるイリス。敵意剥き出しの小動物に輝は深いため息をついた。



「ティアノラに頼まれたんだよ。あとレイの意思だ」


「そんなウソに騙されませんよ! 博士はそういうこと言いそうですけど、レイちゃんが自分から男と二人っきりになるわけがないじゃないですか!」



 ごもっとも。会ったばかりの輝ですらそう思うのだから、付き合いの長いイリスがそう思うのも至極当然。しかし事実は事実だ。



「あ、あの、イリス……黒神様が仰っていることは本当です」



 ピタリ。イリスの威嚇が止まる。目をぱちくりさせて。



「ん? んん? ごめんレイちゃん。ちょっと聞き取れなかった。もう一度言ってくれる?」


「ですから、黒神様が仰っていることは本当なんです。ティアノラ博士が黒神様に都市を案内することを提案して私は承諾したのです。そこに強制はありません」


「あはは、いやいや……」



 ないない、とイリスは首を振る。レイ自身の言葉であっても、否、レイ自身の言葉であるが故に、なおのこと信じることができなかった。



「え? いや……え? 本当に?」



 こくり。レイは頷く。


 次の瞬間、イリスはまるでこの世の終わりと言わんばかりの悲愴感を漂わせて四つん這いになった。



「レイちゃんが、レイちゃんがどこぞの馬の骨とも知れない男に寝取られたーっ!」


「おかしなことを叫ぶんじゃない!」


「ふぎゃん!?」



 さすがに言動が目に余ったので機械鎌の刃のない部分でイリスの頭を叩く。セリカにも殴られていたが、きっとそういうことは日常茶飯事に違いない。


 しかし手遅れだった。叫びを聞いた民衆の冷ややかな視線が輝に突き刺さり、何とも居心地が悪い。



「レイが大事なのはわかるけどな、もう少し言葉を選べよ」


「そうです! レイちゃんは大事なんです! なのでここからは私もついて行きますからね! 拒否権はありませんよ! 拒否なんて許しませんからね! いいですか! 拒否してはダメですよ!」



 輝の話はまったく聞かず同行を強く訴えるイリス。彼女の心情は理解できる。しかしあまりにも念を押す言い様に、裏の意図があると踏んだ輝はこう答えた。



「拒否する」


「拒否するなって言いましたーっ!」



 飛び上がり様のアッパーカット。本当に攻撃的な娘だ。


 大人しく殴られてやるいわれはないので、首を捻って躱し、イリスの頭を掴んで彼女の手が届かない位置まで押し退ける。



「ふぎぎぎーっ」



 奇声を上げながら輝を殴りつけようと両手をぐるぐる回している。しかし身長差があるので届かない。


 なんだかじゃれついてくる小動物と戯れている感覚になってきた。



「で、レイはどうする? イリスも連れて行くか?」



 基本的に主導権はレイにある。レイが良いと言うのなら別に同行しても構わないだろう。



「えっと、黒神様が……その、ご迷惑じゃなければ……」



 まあご迷惑極まりない。なにせ白昼堂々と奇襲してくるような騎士様だ。常に背中に気をつけていないといけないのは神経を擦り減らす。


 それでもレイが良いと言うのであれば良い。彼女に与えられた課題は輝を通じて男に慣れること。そこにイリスが入り込もうと支障はない。むしろ彼女を安心させる要素になる。



「レイちゃんありがとーっ! さすが私のレイちゃんだよぉ〜。大丈夫、私がレイちゃんをこの男から守ってあげるからね」


「俺がレイに何かする前提で話すのやめてもらえないか?」



 喜色満面でレイに抱きつくイリスに輝はげんなりした。レイの男性恐怖症とは別の理由で敵視されているようにしか思えない。



「じゃあ引き続き案内を頼む。できれば急いで」



 いい加減、突き刺さる視線から逃れたかった輝は割と真剣に申し入れた。


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