新雪の乙女②


 夜のとばりが下りた室内は暗闇に覆われており、自分の姿すらもよく見えない。窓から差し込むわずかな月明かりだけが目の前にあるモノの輪郭りんかくをぼんやりと浮かび上がらせている。


 部屋の空気は生温く、甘ったるい香りと蒸れた汗の臭いが鼻腔から肺腑はいふを満たしていた。


 目の前には自分の体格を上回る大きな影。逃げられないように覆い被さり、ギラついた目で見下ろしてくる。息遣いは荒く、影が動く度に木製のベッドがギシギシと軋みを上げた。



「……ぃや……やめ、て、ください……」



 哀願あいがんの声は望まぬ官能に震えていた。


 翡翠ひすいの瞳からは涙が伝う。静脈が透けて見えるほど白い肌は余すことなく夜気にさらされ、しかし上気してじっとりと汗ばんでいる。


 影の口が三日月に裂けた。


 くつくつと鳴るわらいはどこまでも嗜虐的しぎゃくてきで、願いが聞き入れられることはない。答えの代わりに両の手首を強く押えつけられ、抵抗できない身体に欲望が際限なく叩きつけられた。


 哀願あいがんも、嘆願たんがんも、切願せつがんも、懇願こんがんも――幾度いくど繰り返しても聞き届けられることはなかった。繰り返すごとに獣欲は燃え上がり、この身体を焼き尽くす。苛烈さが増すにつれて影の瞳からも正気の光が薄れていった。


 怖い。怖い。怖い。怖い。


 ぶつけられる劣情が怖い。与えられる快楽が怖い。押えつけてくる力が怖い。火照る身体の熱さが怖い。昇り詰めていく感覚が怖い。


 何もかもが怖くて仕方がなかった。



(いい加減、楽しめばいいのにぃ。気持ちいいでしょぉ? ゾクゾクするでしょぉ?)



 頭に響く声。熱に浮かされた声が語りかけてくる。


 イヤイヤ、と首を振った。


 何度も何度もこの行為は行われてきた。抵抗すれば暴力を振るわれた。大人しくしていれば辱められた。


 恐怖しかなく、心はとうに折れて、この身はただ欲望のけ口になるしかなかった。



(あはぁ。でもでもぉ、男ってそういうものだよぉ? 彼らにとって愛慕あいぼも色欲も、みぃんなおんなじ。貴女はいま愛されてるの。その男の目を見てみて? 何が映っている? 貴女しか映ってないでしょぉ?)



 暗闇に浮かぶ虚ろな瞳に映っているのは自分の顔。眉を八の字にひそめ、目に涙を浮かべ、頬を赤く上気させる被虐的な顔。



(ほらぁ? すっごい女の顔してる。今までの男たちもみんなそう。貴女のその表情に魅せられて、貴女を欲して、貴女を愛すの。この世の全ての男に愛されるって素敵なことじゃない? だから貴女も応えてあげなきゃ。愛して貰ったら、愛してあげるの)



 愛? こんなものが愛? だったら要らない。こんなに怖くて苦しいものが愛だというのなら、そんなものは要らない。


 クスクス。あざけりにも似た笑い声が聞こえる。



(へんなのぉ。それなら拒めばいいのにぃ。なのに貴女は今、愛を受け入れている。拒絶することもできるのに受け取ってるんだよぉ? 初めての時から今宵こよいに到るまで。一度も拒まず、受け入れ続けた。私が教えるまでもなく、貴女はもうずっと前からそうすることを選んでいたんだよぉ?)



 そんなはずはない。ずっと拒み続けていた。だけど怖くて抵抗できなかった。そんな力もなかった。だから、こうして耐えるしかなかった。



(ほんとにぃ? ほんとかなぁ?)



 本当だ。だから泣いている。己の意思に逆らって熱を帯びる身体を恐れている。


 愛? そんなものは知らない。知っていることは一つだけ。


 レイ=クロークにとって、男とは恐怖そのものだということ。







「――っ!?」



 気がつけば覆い被さる影はどこにもなく、ランプの灯りでぼんやりと照らされた自室が広がっているだけ。


 見ていたものが夢だとわかってレイはほっと胸を撫で下ろした。


 全身が寝汗で濡れている。自分の汗以外も混じっている気がしてひどく気持ちが悪い。



「シャワー……浴びないと……」



 この汗を早く流してしまいたい。それ以外のことが考えられず、頬に貼りつく白髪を払ってベッドから抜け出した。


 タオルと着替えを手に浴室へ向けて廊下を歩いているとき、何となく窓の外に目が向いた。


 暗闇と静寂に覆われた街並み。活動する人の気配は感じられず、都市は寝静まっている。漆黒の海に漂う数多の星々と下弦かげんの月が冴え冴えと都市を照らしていた。


 静かで穏やかな暗い夜。眺めているだけで心が安らぐ。そんな気がした。



「おんや? レイ、こんな時間に何してんだい?」



 名前を呼ばれて振り返れば、くたびれた白衣を羽織った女性が立っていた。



「ティアノラ博士」


「おうとも。天才科学者のティアノラ=クーラー博士さ。んで、こんな時間に何してんだい?」



 堂々と自らを天才と呼ぶ人にレイは苦笑を返した。


 自称するのは自信の表れ。事実、他者からも彼女の技術力の高さは認められており、誰もが不可能だと匙を投げた技術をいくつも完成させている。


 確固たる実績があり、自他共に認める天才科学者。それがティアノラ・クーラーという女性である。


 そんな彼女がレイには眩しい。



「いえ、目が覚めてしまって……汗をかいたのでそれで」


「また……悪い夢でも見たのかい?」



 レイは無意識に自分の肩を抱いた。


 それを肯定だと見抜いたティアノラは彼女の肩を叩く。



「昔のことだ。気にしなさんな、と言ってもそう簡単にはいかんだろう。けど思い出しな。アンタについた首輪はあたしが外してやったろ。この家にアンタを脅かす者はいやしない。仮にそんな奴が現れたとしても守ってくれる奴らがたくさんいる。あたしも含めてね。だからまあ、なんだ、ちったぁ安心しな」


「はい、博士には感謝しています。博士に出会わなければ、私は今もあのような毎日を生きることになっていたでしょう。そこから連れ出してくれた博士には感謝してもしきれません」



 昔に比べればいまの生活がどれほど幸福か。それを与えてくれたのは目の前の女性。報いるためならこの先の未来を全てこの人に捧げても構わないとさえ思っている。



「けどまあ、そろそろそ向き合った方がいいかもねぇ」


「え?」



 ティアノラが口にした言葉の意味を理解して、それでも聞き返さずにいられなかった。



「全ての関係を閉じて生きていくなんて無理な話だ。ある程度は遠ざけることが出来ても接しなきゃならん時が必ず来る。その時にあたしらがレイの隣にいるとは限らん。一人で向き合えるだけの力は必要だ」


「それは……」



 わかっている。このままではいけない。守られているだけ、避けているだけではいけないと。


 けれども、どうしようもなく怖い。向き合えるだけの勇気が振り絞れない。想像しただけで指先の感覚が失われていく。



「そんな顔しなさんな。いますぐって話じゃあない。それにちゃんとフォローはするさ。けど大切なことだ。わかるかい?」


「……はい」



 いますぐではないと言われて安心している自分が情けなくもあった。



「よろしい。ならこの話は終わりだ。ところでレイ。明日ちょいと付き合って欲しいことがあるんだが」


「なんでしょうか?」


「実験に使ってる素材を切らしちまってね。補充したいんだ。ほら、近くの林に『一角兎』コーンラビットが生息しているだろう。明日、角を採取しに行くからついて来てくれ」



 『一角兎』コーンラビットとはこの都市――『オフィール』の南方の林に生息している魔獣のことである。ランクはE。文字通り角の生えた兎で非常に愛くるしい見た目をしているが魔獣は魔獣。その脚力は凄まじく、弾丸の如き突進を受ければ串刺しにされて絶命である。



「ご自身で向かわれるおつもりですか?」


「そりゃあそうさ。実際に魔獣を仕留めるのは『鋼の戦乙女』アイゼンリッターたちだがね。ランクEとはいえ危ないことを頼んで、自分は安全なところにいるなんてなんとも居心地が悪いだろう。アンタの魔術で彼女たちを守ってやってほしい。あたしも荷物持ち程度はする誠意を見せないとね」


「狩人に依頼をすればいいのでは?」



 魔獣の討伐、素材の採取など、そういった類の仕事は魔獣を専門にした狩人に依頼するのが普通だ。


 ティアノラは口をもごもごさせるだけで黙ってしまう。


 そんなティアノラをじーっと見続けているとやがて苦い表情を浮かべて――



「だって……あいつらに頼むと高いだろ」


「……博士」


「そ、そんな目で見るんじゃないっ。あれだぞ、別に金がないってわけじゃないからな。ちょっと設備投資をしたから少しばかり節制したいと考えただけだ。金がなくて研究が行き詰まるなんて状況にはなりたくないからなっ」


「設備投資って、またですか……今度は何を購入されたのですか?」


魔力素配列解析器マナゲノムアナライザー



 軽く目眩を覚えた。専門の研究機関が所持するような高価な装置であり、家をひとつ建てられるほどのものだ。決して一個人が所持するようなものではない。



「それで、素材の他に魔力素マナ結晶の回収も目的ということですね」



 依頼の中で得た魔力素マナ結晶は狩人の自由にしてよいというのが通則。狩人に依頼をすれば魔力素マナ結晶の回収は見込めない。


 何故なら魔力素マナ結晶はお金に換えられるから。命を預ける武器防具に費用がかかる狩人はそれを欲しがる。



「ま、まあ、そういうことだな」


「博士」


「な、なんだ……」


「回収した魔力素マナ結晶から得た資金は、私が管理しますからね」



 資金が増えればまた何かとんでもないものを買おうとするだろう。今は良くても、この先破産なんてされたときには目も当てられない。



「い、いや、それは――」


「なんでしょうか?」



 やはり他にも欲しいものがあったのだろう。何かを言おうとしたティアノラをレイは笑顔でさえぎった。



「……はい、お願いします」



 笑顔の圧力に耐えかねた天才科学者はがっくりと項垂れるしかなかった。


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