第33話 VGH
「——ほら見て! ここにもあるわ。しかもこんなに沢山。嘘みたい! こんなに持って帰ったら、お父様もきっと吃驚する!」
少女は夢中になり、足首まで泥水に浸かるのも忘れて、木々の隙間へと入って行く。
「そうだ。今日、紹介したい娘が居るの」
「紹介?」
「そう。凄く良い子なの! そろそろ来るんじゃないかな。だから余り奥には行けない——」
話終らぬ内に、男が立ち上がった。
「どうかした?」
俺は。
「ねえ?」
壊さないと。
「……」
この手で永遠に始末を付けるのだ——
バシャ! バシャッ!
それが愛情なのか憎悪なのか、最早、自分でも識別不能だった。次の瞬間、獣じみた咆哮が響いたかと思うと、永い静寂が訪れた。
「はあーっ。はあーっつ」
目が合ったと思った。
その時、幸運にも目の前の白い花の塊が自分を覆い隠してくれていたとも知らずに。
少女は石化していた。濡れた前髪が顔に掛かって前が良く見えもしないのに、彼女にはそこで行われている狂気が肌を通して伝わってきた。
やがて、ずるずると柔らかな泥を撫で回すような余韻だけを残して、獣はその場を離れた。
獲物をしっかりとその手に携えて。
「ブレンダ?」
名前を呼ばれ、彼女は我に帰った。
「もう直ぐだよ」
「……」
「どうした? 震えてるよ。怖いの? 止めとく?」
「いいえ。ちょっと考え事をしてただけです。平気です」
声が震えた。本当は、たった今垣間見えたビジョンが恐ろし過ぎて逃げ出したい気持ちで一杯だったが、既のところで踏み止まっていた。
カナダラインのブロードウエイ駅で地下鉄を降車し地上に出てみると、ダウンタウンのビル群の向こうに雪を湛えた山々が見えた。駅前でサックスを演奏していた人が、こちらを見てウインクしてくる。次第に落ち着きを取り戻したブレンダは、青白い顔で軽く会釈を返した。
「車、多いね」眩しそうに日和が言う。
「そうですね。島とは違いますね」
二人はオリヴィアの父カールの旧友に会って話を聞くため、バンクーバーの市街を訪れていた。
一向に進まぬブレンダの記憶回復の鍵が、彼女の夢にあると踏んだ日和がオリヴィアに相談し、島のことを最も良く知る人物として紹介された中の一人が、今日訪ねる相手アンドリュー・モーレイだった。
彼は昔、オリヴィアの父の右腕として、永らく島の治安を守ってきた人物だった。極めて優秀な騎馬警察隊員で、彼女の良き隣人だったそうだが、数年前に体調を崩しバンクーバー市内の総合病院へ入院したということだった。
「あまり期待しないで」
二人に向けてオリヴィアは言った。
今回、ブレンダと日和が話を聞きたいということで、病院に連絡しアポイントを取り付けてもらったのだが、彼女自身、最後に会ってから年数が経っていて、彼が著しく衰えているということを病院の関係者から聞いて初めて知ったらしかった。
「VGHだっけ? ここ左だよね?」
「そうです。駅から西の方面へ歩いて行くとあるはず」
ほら。と言って、ブレンダがスマホの検索画面に現れた地図を日和の目の前に差し出した。
「バンクーバー・ジェネラル・ホスピタルって読むんだ。ブロードウエイじゃないんだね、十二番通りなんだ」
「そう。先に十二番まで下って西に行きましょう。それなら間違えないでしょうから」
「そうだね。そうしよう」
二人は連れ立って歩き出した。
春先だというのに、まだ日影は肌寒かった。二人はなるべく日の当たる箇所を選んで歩いた。十分ばかり歩くと、右手に「バンクーバージェネラルホスピタル」と書かれた表示が見えて来た。
「これかあ。でもどこなんだろ? 入り口」
「広いですよね。ここ」
ブレンダと日和は目を凝らしながら、更に西へと向かって歩く。「あれじゃない?」日和が突然前方を指差した。
木々の切れ間に階段が見える。降りた先に、「エントランス」と表示されたドアが見える。
「あそこから入ってみよう」
「建物広いから、間違ってるかも知れないですね」
「仕方ないよ。その時はナースか誰かに聞けば良いんだから」
「そうですね。了解」
二人はスタスタと院内に入っていった。
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