第34話 面会

「第三病棟? ああ、この先を右に折れて。そう。直ぐにナースステーションがあるから、患者さんの名前を伝えて聞いてみたら分かると思うわ」

 案の定、広い病院内で迷ってしまった日和とブレンダは、あちらこちらで病院関係者に経路を尋ねながら、アンドリュー氏が入院しているという第三病棟まで後もう少しという所まで来ていた。

「あそこだ!」

「何だか、ドキドキしますね」

 ナースステーションで名前を告げると、そこに居た看護士が二人の方を見た。何だか戸惑っている風に見える。

「面会ね——ええ確かに聞いてるわ。でも、無駄だと思うわよ」

 でっぷり太った看護士はそう言ってから、最後に『312』と、部屋番号を付け加えた。

「あのう。どうして無駄だと?」

「貴女達、彼に何か話があるんでしょ?」

「ええ、はい。ちょっと昔のこととか、お話を伺いたくて」

 ブレンダが言うと、看護士はふんと鼻を鳴らして、「彼は話せないのよ」と言った。

「話せ……ない?」

「そう。彼は今年八十五歳になるのだけれど、数年前から記憶が曖昧で自分の年齢も分からない。まあ呆けてきたのね。仕方のないことだけど。今じゃロクに話も出来ないわ」

 残念だけどと言い残して、看護士は掛かってきた電話を取った。

 日和とブレンダはお互いの顔を見合わせた。

「どうする?」日和が聞いた。

「どうするって言っても。行くしかないです。私、行きます」ブレンダが前向きに答えた。いつもの柔和な彼女からは、想像も付かないほどの強い決意が日和にまで伝わって来た。

「そうだね。ここまで来て、何もせずには帰れないものね」

「はい」

「では行こう」日和は先頭に立って歩き出した。

 312号室は直ぐに見つかった。ドアをノックするが、返事がない。

「眠ってるのかしら?」日和がブレンダの方を見た。

「イクスキューズミー」呼びかけるが応答がない。

「出直すしかないのかな?」

「そんな、でも……」ブレンダは戸惑っている。

「カム……イン」

 中から声が聞こえ、二人はその場で跳び上がった。

「ハロー」

 日和を先頭に二人が中へと入った。

 キチンと整理整頓された病室のベッドの上には、黒色の寝巻きを着こんだ、白髪で痩身の老人が青白い顔をして横たわり、じっと天井を見詰めていた。傍らに飲みかけの水の入ったペットボトルと砂時計、赤茶色の革表紙で綴じられた日記帳が置いてある。

「ナイスミーティングユー。ウイーアーヒア——」

 日和の話を聞いてか聞かずか、老人は視線を天井に向けたまま、何の反応も示さない。

 二人は困惑して、その場に留まった。

「——ワッユーウオント?」突然、低い声が静かな部屋中に響いた。

「ソ、ソーリー。アイム、ブレンダ——」

 不意を突かれ、日和とブレンダはしどろもどろになる。

「ブレンダ?」ベッドの上で体を捻り、ゆっくりと、老人は二人の方へと顔を向けた。三人の視線が絡み合う。

 ブレンダはじっと彼の目を見た。嗚呼赤い。褐色だ。と思った次の瞬間——

 ブレンダの頭の中に、またビジョンが浮かび上がって来た。

 

『——何も見てない?』

 男が右手で顎髭をさすりながら問うた。

 褐色と呼ぶべきなのか、栗の実の様な、赤茶けた色の鋭い視線がじっとこちらを見下ろしている。

『はい。何も』私は途切れそうな声で、そう答える。

『本当に?』

 妙に優しい声で再度念押しして、私が頷くのを確認してから男は軽く手を振って部屋を出て行く。

 

(何だこれ?)

 目の当たりにした景色が現実と交差する。老人は目を細めて、ブレンダの顔をジロジロと眺めている。

 次の瞬間——彼は凍りついた。

「ワッツザ!」老人が大声を上げる。

 彼は左手で額を、右手で口元を覆った。骨張った指が、髑髏のように痩せた老人の顔の肉に食い込む。

「ミスターアンドリュー? サー?」

 顔色が青い。痩せた顔からはみ出んばかりに充血した目を開き、ガタガタと肩が震えている。

 怯えているのだとブレンダは思った。しかしどういう訳か、助けようという気にはなれない。

「アーユーオーケイ?」

 心配した様子で日和が声を掛け、横に居たブレンダが老人に向かって一歩踏み出した。

「ひいいいいいいいいいーー」この世のものとは思えない声で絶叫し、老人はベッドの上を後ずさる。醜く歪んだ口元から唾気が飛び散った。

「カレン——」次の瞬間大声で叫んだかと思うと、そのまま老人はバッタリとベッドの下へ落下した。

「早く、ナースを呼んで!」ブレンダに向かって大声でそう言うと、日和が老人に駆け寄り抱き起こした。彼は口から泡を吹き白目を剥いている。

 日和の声で自我を取り戻したブレンダは、廊下へ出るなり、全力でナースステーションへと疾走した。

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