第32話 日常
信じられない。
桜とチューリップと、その他の名も知らぬ草花が、溢れんばかりに咲き乱れている。強い紫外線の所為なのだろう、全ての色が日本で見てきたものより数段階上の鮮やかな輝きを放っていた。
草花だけではない。木々の緑も、空も海も、人の顔色さえも濃い。
「どうしたの? 苗。早く行こーっ」
「ええ。そうだね。急がないと」
「そうだよ! 遅れるよ」
苗と咲は連れ立って先を急ぎ始めた。早くしないと学校が始まっちゃう。
咲とは、こちらのESL——イングリッシュスクール——で知り合った。
オリエンテーションの時、全く英語が通じずに校内で居場所を失っていた苗に、最初に声をかけて来てくれたのが彼女だった。
苗より二つ年上の咲は、大学を休学して東京から留学していた。年上ということで初めの頃は少し緊張していた苗も、咲の飾らない朗らかな性質のおかげで、次第に彼女に慣れていった。
「サンキュー。シーユーレイター」
校舎から一歩出ると、二人は空に向かって思いっきり背伸びした。突然、周りから多様な言語が耳に飛び込んでくる。
彼女達が通う学校は、イングリッシュオンリーのポリシーを掲げているため、校内では英語以外の言語の使用が制限されていた。そのため放課後になると、校舎の周囲の至る所で、色んな国の生徒が、各々母国語で会話を始める。
早口で、何を言ってるのか、どこの国で使われている言語なのかすらさっぱりだ。スパイの使う暗号のようだと苗は思った。最も咲からすれば苗の博多弁も相当難解なようで、彼女の前では意識して使わないようにしていた。
「さ、今日はどこに行く?」早速、咲が日本語で話しかけてくる。
「そうだねえ。ね。久しぶりにフィンチズ行ってから海沿いでも散歩するって、どう?」
「フィンチズの洋梨とブリチーズと生ハムのサンドイッチは最高だ」と咲が言って、二人は通りをお気に入りのカフェへと向けて歩き出した。
澄み切った空はどこまでも高く、吸い込まれるように青い。
三十分後、二人は購入したサンドイッチを手にカナダプレイスの見えるコールハーバー沿いの公園のベンチへと腰を下ろした。
「それにしても良い天気だねえ。惚れ惚れしちゃう」
「何それ? 天気に惚れるの?」
「そうだよ! このお天気が男だったら、私ゃ速攻で恋に落ちてる」
咲が真顔で言うので、苗は思わず吹き出してしまった。
「でも本当にそうかも。男前だよね」
「うん。男前だ」
二人は顔を見合わせて大声で笑った。
苗は辺りを見渡す。こんなに大きな声で笑っても、周囲は特に気にした様子もない。常に人目を気にして生きてきた苗にとって何とも新鮮な驚きだった。
——何ておおらかなのだろう。
ここで暮らし始めてからというもの、苗は自分の中の面倒臭い部分が、少しづつ解きほぐされていることに気付いていた。
今まで自分は何に拘っていたんだろう。
母の家出、父の裏切り、祖母の入院。それがどうしたと言うのだ。
周りがどう変化しようと自分は自分でしかない。私まで変わる必要はないのではないか。
そんなことに私が振り回されるなんて、まっぴらごめんだ。
穏やかな湾から吹いてくる海風に頬を撫でられ、二人は暫し無口になる。向こう岸に見える山々には未だ白い残雪があって、それが青々とした風景の中に絶妙なアクセントとして機能していた。
「そうだ! 今度の休みにボウエンに行かない?」突然、咲が沈黙を破った。
「ぼーえん? って?」
「島よ、島。ここから、バスに乗ってフェリーに乗り換えて行くの」
「ええ大丈夫? ちゃんと行ける?」
苗は不安になった。咲は大体思いつきで行動するのだが、往々にして道に迷う。天性の方向音痴なのだ。
「大丈夫! うちのホストマザーがそこの島の出身で、来たばかりの頃、一度一緒に連れて行ってもらったもの」そう言って咲は胸を張った。
「うーん。了解。じゃあ行くまでに、もう一度道筋を確認しといてね」
「は? 何それ? 大丈夫。私に任せときなさい。悪いようにはしないから」
どこかのお偉いさんみたいだ。こういう甘言に乗せられて、女性は弄ばれてしまうのだろうなと苗は思った。
「よーし、行くぞボウエン!」
「うん。目指せボーエン!」
再び、二人は顔を見合わせて笑い転げた。
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