第30話 秋冬 福岡市 その6
「え?」
「だけん、どうやって聞きよったい」
父から示された提案が意外過ぎて、苗は直ぐに応えることが出来ないでいた。
「バン——? 何だっけ?」
「バンクーバー」
「バンクーバーって、どこだっけ?」
「カナダに決まっとろうもん」
辛うじて「そう」と相槌を打ったものの、何をどう答えれば正解なのか苗にも分からない。
カナダって、どこら辺やったっけ? 咄嗟に考えを巡らせたが、頭が働かない。ただ海の向こうの、どこか遠くの別の国であることだけは理解出来た。
「で、どうするとや?」
「どうって……。今直ぐには、分からんけん。ちょっと時間頂戴」
「……そうか。来週中には先方に連絡入れないかんけんが、それまで良う考えて返事ばしてくれ」
そう言い残してから、父は再度苗の目を見て、「お前の為やけん」と言い残して去った。
種から「悪い話じゃない」と聞かされて、苗は父に電話した。
あれほど、忌み嫌っていたのに。
二度と会いたくないと思っていたというのに。
何となく美味しそうな話に釣られて、いとも簡単に連絡を取ってしまった。
中途半端だ。自分が嫌になる。
結局、傷口が癒えるのなら何でも良かったのかも知れない。誰の助けでも、どんなに醜い申し入れでも、私は受け入れるのだろう。所詮私の決意など、環境次第でオブラートの様に簡単に消失してしまうものなのだ。最低だ。
「なあ、やってみたら良いやん」頭の中に弟の声が響いた。
羨ましい。
あいつはいつもそうだ。ひょっとすると、男という性全般がそうなのかも知れないが。どこまでも単純で、物事を見たまま聞いたまま理解することしか出来ない。
どうする?
父からカナダ・バンクーバーへの短期留学を勧められて、苗の心は揺れていた。彼の地に住む父の大学時代の友人の所へ、暫く厄介になってみないかという申し出だ。
父に対する反抗心と周りの友人への虚栄心、何よりも自分自身のプライドという名の厄介な怪物に対し、彼女は大義名分を立てようと躍起になっていた。
逃げ出すのか。
ここで用無しになったから海外へと。そんなので本当に良いのか。
幾ら考えても良い考えなど浮かばない。分かる訳がない。だって未来の出来事など誰にも分かる訳ないのだから。自分の選択の是非について今どれほど深く詮議したとしても、それは不毛に終わるしかないのだ。結果は先にならねば分からない。
行動すべきなのかも知れない。
弱虫といわれようとも、今の私は逃げるしか出来ないのだから。
それに少なくとも、ここから離れることが出来る。
東京よりもずっと遠くへ。
目を閉じ机に突っ伏したまま、いつの間にか苗は、まだ見ぬ異国の地へと思いを馳せていた。
三月某日、苗は福岡空港国内線ターミナルへ出向いていた。彼女は今日、成田を経由して、遥か北の異国へと旅立つ。
「では、行って来るね」
「何かしこまっとうと? 可笑しい」珍しく種がガハハと豪快に笑った。そんなに自分と別れるのが嬉しいのだろうか? 苗は眉間に皺を寄せて弟を見た。
「親父には無事行ったって言うとくけん。無事着いてや」
「当たり前やろ。それより、おばあちゃんのこと宜しく」
唯一、祖母のことだけが気掛かりだった。
「分かった。それよか飛行機乗るの初めてやろ。ちびるなよ」
「無問題だよ。ワクワクする」
確かに苗は、受験の時も新幹線で東京まで行った。正直いうと恐怖心がない訳でもない。ただ、弟にこの気持ちを悟られるのが嫌で仕方がなかった。
「グッドラック」そう言い残して、種は親指を立てて頭上に翳した。
苗は舌を出してから搭乗ゲートを潜り、そのまま振り返ることなく飛行機へと向かった。
「アテンションプリーズ。当機は間もなく福岡空港を出発いたします——」
機内アナウンスが流れるが、苗の耳には一切入って来ない。最終点検に忙しいキャビンアテンダントが互いにひそひそと話している様子や、前の座席の背にくっついているスクリーンなど、これまでの彼女の日常では目の当たりにすることが無かった様々な事象に心を奪われていたからだ。
一つ席を開けた隣の女性が眺めている機内誌を真似して眺めながら、この雑誌を持って行っていいものかどうか考えに耽っていると、突然グンと体がシートに押し付けられた。飛行機が加速しているのだ。
エンジン音が大きくなりカタカタと機内が揺れる。いつの間にやら、搭乗員も椅子に座っていた。ポーンという機械音と同時に前方のサインが点灯する。何が何だか分からずに焦っている内、急に体がふわっと浮き上がる感覚に襲われたかと思うと、そのまま一気に、周りの世界ごと空へ向かって、勢い良く引っ張り上げられた。
全身が強張り、手摺りを握る手は汗でびっしょりと濡れている。このまま自分の意識さえ置いて行かれるのではないか。と苗は思った。
(やっぱりちびりそう!)種の顔が頭に散らつく。
その時、初めて苗は窓の外を見た。なぜそうしたのかは分からない。怖いもの見たさからだったのかも知れない。
「あ!」
息を飲んだ。
眼下に街が広がっている。ミニチュア版の福岡の街だ。自分がさっきまで、あの一部だったということが、直ぐには受け入れられない。
気が付くと、苗の体の震えはすっかり鎮まっていた。
今回、留学すると言うことを伝えると、友人達は口々に「凄い」だの、「カッコイイ」だのと言って、苗を持て囃した。
そんな言葉を聞くにつけ、苗は酷く嫌な思いをした。彼らは自分達が優位に立っていることを知っている。自分達は進路が決まり、行き先を失ってその場凌ぎに渡航する私を憐んでいるのだ。角田君も、冬香だってそうだ。
皆んな嫌いだ。だけど、こんなことしか考えられない自分が、一等嫌いだ。
それなのに——
急に目頭が熱くなった。
大嫌いなはずの故郷が視界から消えるのを見届けてから、苗は俯き、目を閉じて、ヘッドフォンから流れる音楽に集中した。
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