第29話 秋冬 ボウエンアイランド その4
紡は悩んでいた。
ブレンダのことだ。彼女が自分の元に来て、働き出してから、もう早一年が過ぎようとしている。その間ずっと気には病んでいたのだが、彼女の記憶は戻る気配がない。
今がどういう感じなのか、直接彼女に問い正そうかとも考えたのだが、尋ねる言葉が見つからない。否、聞く勇気がないのだ。
このままではいけない。そのことは紡も百も承知だ。
溜息混じりに立ち上がりカップに口を付けた。少し癖のある、酸味の強い珈琲豆の香りが鼻をついた。
日和は? 何か知らないだろうか?
夏のキャンプの前後くらいから、紡は、彼女とブレンダが二人でこそこそと話しているところを何度か見掛けていた。
何か隠しているのか?
まさか記憶は戻っている?
紡は頭を振った。有り得ない。もし記憶が戻っているなら、少なくとも自分とリヴには相談があるだろう。我々は共犯者なのだから。
ではどうする? このまま答えが見つからぬまま、時間だけが過ぎてしまって良いのか?
日和もそうだ。
「キセツ」がスタートして一年。ワーキングホリデーメーカーとしての彼女のステイタスは、とっくに期間を満了し、今、彼女はビジターとして滞在している。今年の夏がやってくる頃には彼女は帰国を迫られることだろう。
キュッと胸が締め付けられる感じがした。
出来るなら、二人ともここに居て欲しい。だがしかし、それは叶わないのだろう。
目を閉じた紡の瞼の裏に、日和の小馬鹿にしたような笑顔が浮かんだ。彼は慌てて首を左右に振り目を開いた。
それに考えてみれば、ここも危ないかも知れない。本人達の意向はどうあれ、自分は今、二人を不法に働かせているのだ。もし移民局に知れれば、「キセツ」は一掃されてしまうだろう。自分もリヴも何らか咎められることは、まず間違いなかろう。
ピカリと窓越しに稲光が走り、雨が降り始めた。ここでは珍しい南国のスコールの様な激しい降雨だ。
あの日もそうだった。遠い目をして紡は窓の外を観察する。
こんな雨の日だった。初めてブレンダと会ったのも……。
紡は思い出に耽った。金髪の少女との不思議な出会いと、これまでの経緯を。それは自分の愛する「キセツ」の歴史そのものだ。
「もう少し。もう少しだけ待とう」そう呟いて、再び紡はカップを口に運んだ。
冷めた珈琲からは、最早、同じ香りはしなかった。
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