第18話 秋冬 福岡市 その1

 午後八時。種は、中央区にある祖母の病室へと向かっていた。

 太陽はとっくに西へ沈んでしまい、一ヶ月前に比べると、気温が格段に低く感じられるようになった。種は薄手のジャケットの前のジッパーを閉じて先を急いだ。ふと見やると、街灯に照らされた通りの欅の葉が赤く色づき始めている。

(受験前ってあんな感じなのかな)

 今日ここを訪れる前に、一緒に行かないかと姉を誘った。種としては、最近とみに塞ぎ込んできている姉を励ます意味もあったのだが、ものの見事に断られた。

 最近の姉を見ていると自分自身を追い込んでいるように見えて、こちらまで、胸が苦しくなる。

 それが受験の所為なのか、角田とかいう、新しいボーイフレンドの所為なのかは分からないが。

 ここのところ姉は祖母の見舞いにさえ行っていない。何かを恐れて、固く殻を閉ざして身を守っている。まるでザリガニだ。種には、そんな風に感じられてならない。

「今晩わ」すっかり顔馴染みになった守衛室の前を通り抜け、種は病棟へと進む。途中、自動販売機でオレンジジュースを買って、祖母の眠る病室へと進んだ。

 院内は相変わらず明るいが、この時間になると人影もまばらで、特に祖母の居る緩和ケアセンターは、患者の平静とプライバシーを守ることに重点を置いている所為か、医務局を除いて人気は皆無だった。

 こうも静かだと、誤って自分の知らない別の世界に足を踏み入れてしまったような不思議な気持ちになってくる。しかし、種は直ぐにそれが、外の世界とこの非現実的な世界とのギャップから生じていることに気付いた。

 ここは特殊な空間なのだ。

 直近に迫っている死の恐怖を、少しでも和らげるために皆ここに来ている。外の世界と同じ訳がない。ただ、患者に外の世界との違いを極力悟らせないよう様々な工夫が施されているだけなのだ。

 種は、その時が来るまでに一回でも多く、祖母に会っておこうと思った。

 祖母の病室はケアセンターの最深部にある。先に見える廊下の角を回ったところだ。おかげで中で少々物音を立てても、周りに及ぼす影響は最小限に留められる。種も、苗も、そういう理由で、ここに来ると、いつもより幾分リラックスして祖母に色んな話を打ち明けることが出来ていた。

 突き当たりを右に折れれば祖母の病室だ。種はゆっくりと角を回り、ギョッとしてそこで立ち止まった。

 何か青白いものが見える。

 何かが、祖母の病室のドアから突き出している。

 しかも初めは小さかったそれは、種の見る前で徐々に大きく膨らんでゆく。

 違う。これは何かが——

 何かが、ドアから抜け出して来ているのだ。

 見てはいけないもののような気がしたが、種はそこから目を逸らすことさえ出来ない。

 まるで蝉が羽化する時のように、それは、頭、背中、腕、下半身と、順番に、ゆっくりと病室の閉じたドアを擦り抜けて出現した。

 おばあちゃん——

 ドアから鈴が抜け出てきた。

 それから祖母は、ゆっくりと廊下の突き当たりへ向かって歩んで行く。

 そして種の目の前で、

 今度は、突き当たりの壁の中へと次第に吸収されていった。

「おばあちゃん?」

 種が病室へ駆け込むと、そこには目を瞑って横たわる祖母の姿があった。近づいてみると、スースーと祖母の寝息が聞こえてくる。

 咄嗟に病室の窓に駆け寄り、ロックを外してベランダへと飛び出した。ベランダの柵越しに、種は目一杯体を乗り出して、中庭の先——先ほど祖母が吸い込まれていった壁側——を確認する。

 ずっと前方に、歩いて行く祖母の後ろ姿が見える。

 ベランダを飛び越え種は祖母の後を追う。対した距離でもないのに心臓がバクバクと忙しく脈打っている。

 花壇を飛び越え、種が中庭の中央にある池の辺りに達しようとした時、目の前を歩いていた祖母の姿が忽然と消えた。

 一瞬、種はその場に立ち尽くしてしまったが、直ぐに気を取り直し、水辺に駆け寄った。

(落ちた訳じゃないよな……)

 身を乗り出して池の表面を見詰めるが、水面には、種のポカンとした顔だけが写っていて波一つ立ってない。

 種は首を傾けた。祖母は確かにそこに居た。彼には、祖母が池まで来た後、その中へと入水していったように見えたのだ。しかし……。

 種は池の周りをグルグルと周り、中を覗き込んだが何も見えない。これは、ただの池だ。

「そこで、何をしている?」

 背後から急に声を掛けられ、ギクリとして種は立ち止まった。

 振り向くと、背の高い痩身の骸骨の様な男性がこちらを見ている。「こっちへ来い」男性は種に向かって手招きした。

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