第12話 夏 福岡市 その2

 窓越しに見える欅の枝が風にそよぐ微かな音すら聞こえてきそうなほど、病室の中は静けさに包まれていた。強烈な真夏の日差しが清潔な白いカーテンによって濾過され、柔らかで暖かな陽光となって、目を瞑っている祖母の上に降り注いでいる。

 そうだ、祖母はいつもここで眠っている。中庭なんかに出て行く訳がない。でも、じゃあ種が見たものは一体何だったのか。

 やはり私に嘘を吐いているのだろうか? 否、私に嘘を吐いて、弟に何のメリットがあるというのか。

 これ以上考えても仕方ないので、苗はそれについて思考を巡らすことを放棄し、病室を片付け始めた。

 病室とは言っても、ケアセンターの個室は、テレビや冷蔵庫、箪笥などが完備され、患者が普段家で過ごしていたのと近い生活を送れるよう工夫されている。

 当たり前だ。ここに入っている人達は皆、病気を治すために来ている訳ではない。むしろ逆だ。なるべく苦しまずに最後の瞬間を迎えるために、ここに居るのだ。

 祖母もそうだ。末期癌で苦しい延命治療を受けて幾ばくかの余命を得るより、安楽な死を受け入れることを選んだのだ。

「おばあちゃん。私どうしたらいいのかな」

 鈴は眠っている。

「どうして何も答えてくれないの?」独り言と分かっていながら、苗は祖母に話し掛けずにいられない。

 母と祖母が居なくなってからというもの、うちの家族はバラバラだ。積み木が足元から崩れ去るように悉く解体されて、もう修復は出来ない。少なくとも私の目から見ればそうだ。

 種の存在だけが救いではあるが……。家族とは何なのだろう。

 互いに助け合うことは出来るのだろうが、反対に、簡単に傷つけることも出来得る。ちょっとしたことで簡単に裏切り、傷つけ合う。近しいからこそ、それは深く心の奥底に突き刺さって抜けない。もっと遠くの他人だったら許せるのに。

 諸刃の剣だ。

 愛情と憎悪とは表裏一体なのだ。

 きっとそうだ——苗は深い皺の刻まれた祖母の顔を見詰めた。

 父は母を裏切り、母は私と種を裏切って捨てた。そういうことだ。

 ——何と脆い。何と脆弱な繋がりなのか。

 そんな傷つけ合うだけの家族なら要らない。

 他人との繋がりの方が余程マシだ。愛だの憎しみだのに縛られるのと、利に縛られることとにどれ程の差異があるというのだ。

 一定の距離を保って付き合えば、裏切られても、裏切っても、傷は最小限で済むだろう。私はあの家を出て行かなければならない。

「おばあちゃん」

 苗はベッドの上の祖母に視線を落とした。相変わらず鈴は固く目を閉ざしたままだ。枕元の周りの一つ一つの物が、規則正しく、きっちりと並べられている。全くおばあちゃんらしい。こんなになっても、この人の本質は変わっていない。

「あれ?」

 眠った時に転げ落ちたのだろう、床に目鏡が転がっていた。鼈甲の様な色味で縁取られた祖母の愛用する読書用の目鏡だ。

 苗は手を伸ばして目鏡を拾い上げ、それをしみじみと眺めた。最早、祖母がこれを必要とすることは無いのかもしれない。そう思った途端、胸が熱くなった。

 一頻り目鏡を眺めてから、苗はテレビ台の下の引き出しを開けた。上から二番目の引き出しに、祖母が大事にしているものを仕舞ってあることを苗は知っていた。

 時計、通帳、日記帳……。全て祖母がまだ元気だった頃の必需品がそこに居座っている。驚いたことに、あれだけ整理整頓好きの祖母にしては、この棚の中は整理が行き届いていなかった。様々な物が——祖母が愛用していた物達が——ともすれば乱暴に置いてあった。

 苗は違和感を覚えた。そして目鏡を中に入れると、悪いとは思いながらも、引き出しの中を整理し始めた。整理すると言っても、そこにある物たちを、ただ真っ直ぐに配置換えするだけなのだが。

 時計やネックレス、目鏡などを右手に、通帳や印鑑類を中央に、日記帳や小さなノートブックを左手に、苗は素早く整頓していく。その時、「カターン」という音と共に何か硬質な物がノートの隙間から床に落ちた。慌てて、苗はそれを拾い上げた。

 ——これは?

 これは鍵だ。それも、今の日本ではまず見かけることがない、中世の欧州とかを舞台にした映画でしか見ない形状の、がっしりと丈夫な鍵だ。あちらこちらが錆び付いた、古びた鍵だ。

 何だってこんなものが? 鍵を手に持って苗は陽の光にそれを翳した。

 これは実用できるものなのだろうか? 飾りにしては少々不出来な気がする。少なくとも祖母の趣味ではない。それにこの鍵には、所々乾いた土が付着しているではないか、これこそ実際に使用した痕跡なのでは?

「おばあちゃん。これ何?」

 答えるはずのない祖母の方を振り返った後、苗はその鍵をジーパンの後ろのポケットに忍ばせた。

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