第11話 夏 ボウエンアイランド その2

『——そう。でもそれじゃあ呼び難いわ。苗字は同じで良いとしても。ねえ、いっそ私と同じでどう? エリザベス——』

 

 がばっ。

「んん、どうかした?」

 腰掛けて、うつらうつらしていた日和は、突然ベッドから起き上がったブレンダに驚いて椅子から転げ落ちそうになった。

 ブレンダはベッドの上で半身を起こし、荒い呼吸を繰り返している。

「大丈夫?」その様子を見て心配になった日和が、ブレンダに駆け寄った。

「ええ、大丈夫です。——あの、日和さん」

「ん? 何?」

「えと、何でもないです」

 この娘何か隠している。日和は直感で、そう察した。

「なあに? 何でも言ってよ」極力柔らかな口調で日和が言う。

「いえ。最近、ちょくちょく怖い夢を見るので、それで、ちょっと」

 そう言ってブレンダは頭を掻いた。

「ならいいけど……。まあ、何かあればいつでも相談に乗るよ」

「はい。ありがとう。おやすみなさい」

「おやすみ」

 そう言って日和が居間のソファベッドに移動すると、ブレンダは一つ溜息を吐いてからベッドルームの照明を落とした。

 

 最初は、何か動物が外を通ったのだと思った。

 この島では、時折、窓の外を野生の鹿などが通り過ぎる音で目覚めることがあったからだ。

 鹿かコヨーテか。いずれにしても、灯りの全くない暗がりで聞くと、余計に薄気味が悪く感じる。日和は再度眠りに落ちることが出来るよう、頭から布団を被り直した。

 ずるずる——

 身体を壁に擦りつけているのか、何かを引き摺るような音が耳に響いてくる。「嫌だ!」日和は耳に指を突っ込み、更に深く布団の中に潜り込んだ。

 どうしても音が気になって寝付けず。暫くして、日和は耳に入れた指をゆっくりと外した。夜の静寂の中に、先程の薄気味悪い雑音だけが微かに聞こえてくる。どうやら、このキャビンの壁伝いに歩いているらしい。

 徐々に覚醒してきた日和は、この微量な音から耳を離せない。

 家の周りを周回したのか、音は玄関の方へと向かって、少しづつ小さくなってゆき、やがて、何も聞こえなくなった。

「ふうー」日和は、緊張によって肺に溜め込んだ息を一気に吐き出すと、弛緩した。

 ガチャリ——

 突如キャビンのどこかでドアの開いた音が聞こえ、日和は全身が総毛立った。

(あれは? 玄関?)

 ずるずる——

 何かを引き摺る音。薄気味悪い音だ。日和は身体を硬くした。

 それは徐々に大きくなって、日和の耳へと迫って来る。

 ここへ、居間に向かっている。今直ぐ逃げ出したい感情に襲われたが、緊張で体がいうことを聞かない。

 ——金縛りだ。

 やがてそれは、日和の居る居間の前に差し掛かったかと思うと——

 あっさり、その前を通り越していった。

「はあ、はあ。今のは? 今の何?」

 金縛りが解けた途端、日和は誰かに確認するように独り呟いた。多分、あれは動物などではない。何というか、もっと恐ろしい、もっと禍々しいもの。そんな気がした。

(どこへ行った?)

 再び耳を澄ます。僅かに嫌なノイズが、日和の耳に届いた。

(ベッドルーム! ブレンダ!)

 ベッドから飛び起きると、日和は暖炉に備えてあった火箸の棒を手に、音がしないよう慎重にドアノブを捻って廊下へ出て行った。

 何も居ない。その代わりに暗がりに慣れた日和の目には、廊下に点々と続く、黒い痕跡が見て取れた。

(何だ、これ?)

 しゃがんで触ってみると、直ぐにそれが泥だということが分かった。これは人間だ。この足跡は二足歩行のものだ。鹿や狐などでは、こんな風にはならない。

 ——ブレンダが危ない!

 脚の震えを堪えながら日和はベッドルームへと向かい、部屋の前へ立った。ドアに耳を付け聞き耳を立てるが物音一つ聞こえない。すうーと息を吸い込んで、意を決して日和はドアノブを回した。

 ベッドに金髪の少女が横たわっている。

 周りの床には廊下と同じ、乾き切っていない黒い泥が付着し、傍にブレンダの着ていたパジャマが、ずぶ濡れで放置されていた。

 声を掛けたいが声を出せず、日和はその場に突っ立っているだけで精一杯だった。

 

 ブレンダが目を覚ますと、そこに日和の顔があった。

 ベッドの傍らにある小さな椅子に、日和は今にもずり落ちそうになりながら腰掛け、眠っている。

 はっとして身を起こし部屋の中を見渡すと、床のあちらこちらに乾いた泥が付着しており、隅には脱ぎ散らかした衣服が積んであった。

(まただ。昨夜もまた、私は……)

 部屋の様子を一目見ただけで、ブレンダは昨夜そこで何が起こったのか察した。

「おはよ。大丈夫?」寝起きのくぐもった声で、日和が尋ねる。

「おはようございます。あのう——」

「うん? ああ、私は大丈夫」椅子に座り直しながら日和が言った。

「いつもなの?」

「……」

「それって、いつから?」

「分かりません。でも最初にキセツに行った日も——最もあの時は明るい時間だったけれど」

「ええーっ。じゃあいつもは」

「ええと、夜眠ってから早朝にかけてです」

「何も覚えてないの?」

「全く。何も」ブレンダは俯いて首を小さく左右に振った。

「ねえ、病院に行ってみたら?」

「待って下さい! もう少しだけ。病院に行ったら、私、連れて行かれちゃう」

 それは——そうだ。彼女は不法就労者で、住所不定で、社会保険番号すら持っていないのだ。実際のところ、どこの誰かも分かっちゃいない。医者に掛かれば一発で施設行きだろう。

 分かってる。分かっているんだけど。

「最近、不思議な夢を見るんです」ブレンダが言う。

「夢というか——ビジョンですかね。遠い記憶のような、それにしては鮮明で生々しくて。この島っぽい風景とか建物とか出てきて。多分ですが、記憶が少しづつ取り戻せそうな、そんな気がするんです」

 必死に訴えるブレンダを前に、日和はそれ以上掛ける言葉が見付からない。

「それに、まだキセツで働きたいんです。日和さんや紡さんと一緒に。もう少し、このままでお願い出来ませんか? 駄目だと判断したら自分で病院に行きます。誰にも迷惑は掛けませんから!」

「——分かった。バレれば私も、紡さんもトラブルだものね。でも少しでも危険を感じたら言ってね。約束よ」

「はい」

「それから、私に出来ることがあれば、遠慮なんかしないでよ」

「了解です。ありがとう」

「さあ、そうと決まれば、朝食の支度。珈琲ある?」

「はい勿論!」安心したのだろう。ブレンダは緊張が解けた面持ちで、台所へと向かった。

 これで良かったのだろうか? 日和は自分の言ったことの是非を確信出来ずにいた。

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