第10話 夏 福岡市 その1
「だから本当だって」
「そんな訳無かろうもん。だって、おばあちゃんベッドに居ったっちゃろ」
疑り深そうな目で、苗は種の顔を覗き込んだ。
「うん。そうなんよ。何でかいな?」盛んに種は首を捻る。
「やけん、あんたの見間違えやなか?」
種から話を聞いた当初、苗は動揺した。祖母が呆けて徘徊し始めたのだと思ったからだ。
以前、友達の家のおじいさんが、認知症という病気に掛かってしまい、夜な夜な家の中を歩き回って大変だったと聞いたことがあった。祖母も同じ病気なのではないかと疑った。
しかし、良く良く聞いてみると、それは、現実には有り得ない話だった。ベッドで眠っているはずの祖母が、その同時刻に庭を歩いているなど、増してや、出口のない中庭で突然消えてしまうなど、どこをどう切り取っても夢物語でしかない。
多分、種は嘘を吐いている。苗はそう思った。ただ、弟がわざわざそんな嘘を吐かないといけない理由が見つからない。それに、見たところ種は真剣そのものだ。
「ねえ種、あんた、頭は大丈夫?」
「はあ? 勿論、何ともないって。何ば言いよっと? ちかっぱ傷ついた」
「ごめんごめん」
長いこと種を見ているが、彼はそんなに芝居が上手くはない。それに、自分に対して嘘を吐いたことなど一度たりとも心当たりがない。それをこんな馬鹿げたこと……。苗は納得がいかなかった。
種は夢を見たのかも知れない。何かを暗示する予知夢とか、そういうのを見て、現実だと思い込んでいるとか?
「ぷぷっ」思わず苗が吹き出した。種が怪訝そうな目付きでこちらを見る。
まさかね。そんな能力が彼に宿っているとは考えられない。そんな力があるなら、あんなにいつも忘れ物とか失敗ばかりを重ねる訳がない。馬鹿馬鹿しい。
「ちょっと考えてみる」と適当に弟をあしらって、苗は表へ出て行った。
外は晴天だった。
家の前の急な坂を上って山手通りに出ると、苗は再び急な坂道を城南線へ向けて下り始めた。やがて、市内が一望できる緩やかな大きなカーブに差し掛かると、暫し足を止めて苗はその風景に見惚れた。
天神、大名のビル街、左手に大きな池の様に見える大濠公園、海岸線には福岡タワーが聳え立ち、その奥には、夏の青い海と、その海にぽっかりと浮かぶ能古島が見える。
空と海の境が曖昧だ。
すうすうと顔を撫でてゆく風の感触が心地良い。
すっかり景色を堪能した彼女は、軽やかな足取りで再び坂を下り始めた。
坂道を終えて平地へと降りた途端、姿の見えない蝉の鳴き声が、四方八方から迫って来た。それは過剰に水分を含んだ暑い空気の層と一緒くたとなって、夏の不快さを苗に押し付けてくる。
急な変化に吐き気を堪えながら、彼女は桜坂駅の階段を降り、地下鉄へと逃げ込んだ。
天神の街は大勢の人で賑わっていた。
夏休みの真っ最中なのだから当然かも知れないが、地下街も地上も人の波に埋め尽くされ、路上には陽炎が揺らめいている。
渡辺通りの交差点に立って、苗はぐるりと周囲を見渡した。
坂から眺めたこの街はあんなに清廉で美しかったのに一度下りてみると、この体たらくだ。
人と車とコンクリート。
焦げたアスファルトの匂い。
やっぱり臭い。
この人達が居なくなっても、果たして陽炎は立つのだろうか?
すっきりとして、気温も下がるのではないか。地球温暖化の原因は間違いなく、ここにいる我々だ。
急に、この場に居るのが嫌になって、気が付くと、苗は人混みの中を西へ——祖母の居る病院の方向へ——と向かって歩き出していた。
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