第9話 夏 ボウエンアイランド その1
日和が自宅を出発したのは午後六時を過ぎてからだった。横殴りの日差しが目を刺激して顔を伏せずにはいられない。日本でなら少し陽が落ち着いて来る時間帯なのだろうが、ここはまだ昼間のように明るい。陽が落ち始めるのが午後九時以降になるのだから、当然と言えばそれまでなのだが。
日和は手にしたトートバッグを弄り、ウエリントン型のサングラスを顔に装着すると、「これで安心」と一言漏らして、歩き出した。
ここからブレンダの住んでいるキャビンまでは、およそ二十分。
移動手段は当然歩きだ。日和はバッグの中の肉じゃがが溢れないよう注意しながら少し早足で歩いた。陽光を反射して煌めく木の葉の濃い緑と、吹き抜ける潮風が心地良い。
最初にバーベキューをやろうと言い出したのは、オリヴィアだった。
ブレンダが借りているキャビンの敷地内に、少人数には丁度良い大きさの庭があり、そこで、キセツの従業員——紡、日和、ブレンダ——と、オリヴィアとで集まってポットラックパーティをしようというのが元々の提案だった。その後、どうせならということで、ポットラックからバーベキューに内容が変わったのだ。
内容は変わったもののバーベキュー以外にも摘めるものがあればと思い、日和は今日、一時間かけて肉じゃがを作った。
(皆んなの口に合うといいんだけど……)
少しドキドキしながら、日和は先を急ごうと森の脇道に逸れる。
夏の森は上質な緑茶の香りがする。緑が濃いのに、すっきりとしていて、少しも諄くない。
春夏秋冬、日に日に森は変わっている。一度として同じだったことはない。最初は気付かなかったけれど、毎日森の中を通っているうち、そのことに気付いた。
急に森が開けた。
風の吹き抜ける草原を通り、沼地の中の一本道を過ぎる。
いつの間にか、日和はブレンダの住むキャビンの直ぐ近くまで来ていた。オリヴィアの車があるところを見ると紡も一緒だろう。自分が最後だったか。日和は駆け足で玄関まで行くと、がっしりとした木製の戸をノックした。
「ハロー」
「やっと来たか。迷子にでもなったんじゃないかと思ってた」紡が素手で野菜を洗いながら、くしゃくしゃになった笑顔を向ける。
「ごめんね、遅くなって」
「腹ぺこだよ。それよりほら、凄いだろう」まだ土が付着したままの人参を、ひょいと持ち上げて紡が言った。
「それも凄いけど量も凄いね。どうしたのこれ?」
「ノーマンさんの自宅で採れたんだって。リヴが貰ってきた。それに肉もたっぷりね」
紡のぎこちないウインクを見て日和が吹き出した。
「私も手伝う」
「ああ、ここは良いから、こいつらを裏庭に。ブレンダに渡してくれ。それからバーベキューの炭に火を起こして——」
「了解」紡が話を終える前に、日和は洗い終えた野菜の籠を手に、飲み物の入ったクーラーボックスを肩に掛け、裏庭へと出ていった。
「食った! もう無理」
「ちょっと飲み過ぎじゃない? 紡さん大丈夫?」
「大丈夫。今日はリヴに送ってもらうんだし」
午後九時、空には黒から濃紺、青、そして夕焼けの赤と続く見事なグラデーションが描かれていた。その中には、暗くなって輝きを取り戻しつつある無数の星が散りばめられている。あと三、四十分もすれば、ここは満天の煌めく星達によって彩られるのだろう。
「ヒワ、ドウスル? ノッテク?」食べ過ぎて突き出た腹をさすりながら、オリヴィアが声を掛けてきた。
「ノーウオーリー。今日は、ブレンダの所に泊めてもらうことになってるの」
食べ終えた食器を片付けながら日和が言うと、「そうなんです」と言って、ブレンダも日和を手伝い始めた。
「ソー。タノシミデスネ」
オリヴィアの言葉を聞いて、少し伏せ目がちに「ええ」とブレンダが答えた。
「どうかした?」ブレンダの素振りに違和感を感じた日和が心配そうに尋ねた。
「——いいえ大丈夫。何でもないよ」ブレンダは顔を上げ、笑顔を浮かべた。
「明日も暑くなりそうだ」
陽が沈んで、急に冷え込んできた空気から身体を守ろうと、薄手のジャケットを羽織りながら紡が言った。
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