第1話 或る老人の回想 その1

 白と黒とほんの少しの灰色だけで構成された部屋にあって、燻んだ色合いとはいえ、その赤っぽい茶色は異彩を放って見えた。

 白髪の老人は、ベッドの背を起こし、黒色の病院着の袖を捲ると、徐に、その日記帳の赤茶けた革張りの表紙を開き、頁を繰り始めた。

 繰る度に、少しづつ、老人の痩せた顔に赤みが差してくる。日記に認められた、彼の半生に渡る記憶が胸に迫って来たのだ。

 ——あれで良かったのか?

 ——自分は間違いを犯したのだろうか?

 老人は自問自答を繰り返すが、何ら明確な答えは得られない。何しろ、もうずっと昔のことだ。

 やがて老人は、ベッドの脇に設置されたサイドテーブルの上の砂時計をひっくり返し眺め始めた。彼には分かっていたのだ。自分に残された時間が、あと僅かであることが。

 今でも、当時の自分からすれば、ベストと思われる選択だったと信じているが、他人に言わせれば、誤った判断と受け取られるのだろう。そうしたことは、この世の中に幾らでもある。

 所詮、当事者にならねば、実際のところは解らない。物事は、そんなに単純ではない。特に人間というものは。その複雑な感情故に、もっと多面的に分析されるべき生物なのだと思う。

 賢く、気高く、愚かで、卑しい。そうした多様な性質を腹の底に併せ持つ生き物なのだ。そして——

 手元に残された古い革張りの日記帳を開きつつ、老人はその内容に耳目を傾けてゆく。


「車だって?」

「おいおい、誰だよ。そんなの此処じゃ宝の持ち腐れだろう」

「ああ、そうか。金持ちの道楽だな」

 口々に村人は噂したが、当の本人は一向に臆することがないらしい。

「そういやあ、どこからか来た娘と一緒に暮らしているってよ」

「どこからかって、どういうことだ?」

「詳しくは知らないんだけど、留学生とか何とか……」

「ああ、俺見たぞ。あれは別の国から、遠い国から来たんだ」

 一人の若者が勢い込んで言った。

「どうして分かる?」

「どうしてって、目の色が違わあ。異国の娘に違いねえ」

 人々は押し黙った。

「あんなに可愛い娘がいるってのに」浅黒い顔の男がニヤリと笑って言うと、「本当に」と皆が賛同した。

「お前、あの娘に惚れてるんだろう?」

 煙草の先に火を灯しながら、別の若者が聞いた。

「あいつが俺に惚れてるのさ」

 背の高い、褐色の瞳の青年が、ふんと鼻を鳴らして言う。

「くくく。本当か? あの屋敷の影から、お前があの娘のことをジーッと見詰めていたって聞いたぜ」

「誰がそんなことを——」

 青年が目を血走らせて叫ぶ。

「ほら、図星だ!」他の若者が大声で茶化した。

「うるせえ!」青年が立ち上がる。

「どうかしたかね諸君!」

 突然、静かな、けれども厳かな、迫力のある声が辺りに響き渡る。その場に居た若者達は全員凍りついた。

「あ、あの……。俺らは、その……」言葉が続かない。

「諸君。彼は君達が思っているような輩ではない」

 三十台前半と思われる金髪の紳士が、褐色の瞳の青年をチラリと見て、毅然とした態度で言った。

「下衆なことを勘ぐる暇があるなら、もっと有益なことを話し合ったらどうだ?」

 若者達は声を失い、ただ頭を下げた。助けられた青年は、羨望の目差しで金髪の紳士を見上げている。

「何も恥じることはない。常にジェントルマンたれ」

 そう言うと、金髪の紳士は、褐色の瞳の青年の肩を二回ほどポンポンと叩いて部屋を後にした。それが合図となって、その場に屯していた若者達は皆、一斉に部屋を出て行った。


「ジェントルマンたれ——か」

 日記帳から目を離し、僅かに開いたカーテンの隙間から外を覗いて、老人は呟いた。

 ——自分はどうだったろう?

 ——紳士であったのだろうか?

 あの下衆な若者達と何ら変わりなかったのではないか?

 往々にして人は、自分だけが他と異なることに優越を感じ、他者を見下す。あの時の自分がそうだったのではないか?

 傍のペットボトルから水を一口啜り、老人はまた日記帳へと視線を戻した。

 伸び切った白髪が無作為に顔に掛かるが、彼は日記帳を見据えたまま気に掛ける素振りさえ見せない。まるで、彼自身、その色褪せた古い日記帳の中へ埋没しているかのようだ。遠い日々への回想は続く。


 風が吹き抜ける。

 キラキラとなびくブロンドの髪は、まるで童話に登場する妖精の様に、その先端から金色の粉を振り撒いているように見える。溜息が出るほど綺麗だ。

 青年は褐色の瞳を最大限に開き、喰い入るように、それを見詰めた。

「おい、どうした?」突然背後から声を掛けられ振り向くと、見知った若者の顔があった。そのニヤついた表情から、彼が何を言いたいのか一目で察した青年は、苦々しくそっぽを向き、唾を吐いた。

「やっぱり、可愛いじゃねえか」

「何のことだ?」

「何って、あの娘に決まってるだろう。他に何があるってんだ?」

 品性の欠片もない。

 卑下た笑みを口元に浮かべる同僚に、吐き気に似た嫌悪感だけが募る。口も聞きたくない。

「でもよう、あの娘は無理だぜ」

「無理?」

「ああ、あの家は金持ちだからな。あそこの旦那、娘を溺愛していて、結婚させる気もないらしい。一生、飼い殺しって訳だ」

「そんな——」

「おかしいだろ? 普通。そんな親が居るか? あの親父、紳士面しちゃいるが、娘と何かあるんじゃないかって、皆噂してるぜ」

「何かって? 何だ」

 若者はフンと鼻を鳴らして、再び卑しい笑みを浮かべる。

「何がって、分かるだろう? ガキじゃあるまいし。男と女ということだよ。そういう——」

 グシャッ。突然、若者が地面に転がった。

 話終わらぬうちに、青年の拳が顔面に食い込んだのだ。更に青年は地面に倒れ込んだ若者の腹を蹴り上げる。「うっ」と唸ったきり、若者は動かなくなった。

「はっ、はっ……。いいか、二度と俺の前にその面を晒すな」

 倒れたまま、小さく頷く若者を見届けてから、改めて視線を戻したが、そこには既に少女の姿はなかった。

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