第2話 春 ボウエンアイランド その1
島の桜の蕾が開き始めた。
長い冬の間雨季に突入していたこの島は、鬱蒼と茂る森が黒い塊となって島中を覆い隠していた。今になって漸く、その霧が晴れる時がやってきたのだ。三月の声を聞いた途端、桜の木々が一斉にピンクの蕾を付け始め、朝晩の気温が激しく上下動を繰り返す厳しい環境の下で、逞しくも凛々しい花を次々と咲かせていった。
桜だけではない。
今後、四月、五月と、島の彼方此方で自生する様々な植物が、敏感に春の訪れを感じ取り、その身に花を宿してゆく。赤、黄、紫と、そこいら中に色が溢れ出す。やがてそれは驚くべき早さで蒼く燃え上がり、この島全体を鮮やかな緑色に染め上げてゆく。
人口三千五百人程度、面積は五十平方キロにも満たない小さなこの島に初めて降り立った時から、
まだ移民したばかりで右も左も分からなかった彼は、初めて出来たカナダ人の友人に誘われるがまま、バンクーバーのダウンタウンからバスとフェリーを乗り継ぎ、一時間半掛けてこの島へやって来た。
ここには電車が無い。
高いビルディングも都会の喧騒も無い。
フェリーの発着場と周辺の店舗を除けば、あるのは——空の青と、海の紺、森の緑と、大地の焦茶色。それも通り一辺倒のものではない。朝な夕なに、時間の経過と共に同じ色であってもその彩りは著しく変化してゆく。
驚くほど豊かだ。
人工的な東京とはおよそ対局にあるこの土地で暮らしたいと、心から願ったことを紡はこれまで忘れずにいた。漸く今、その願いが叶おうとしている。
「よしこれでいい。そこに立て掛けて」
「大丈夫? 本当に自分で書くの?」少しだけ心配そうな顔で、
「ノープロブレム」
自信たっぷりにそう答えると、紡は自分の頭ほどもある巨大な筆に青いペンキをたっぷりと含ませ、立て掛けた流木の板に向かって、容赦ない書きっぷりで「KISETSU」と殴り書きした。
「こんなんで良いの?」
「こんなんで良いんだよ。どう? 前衛的且つ挑戦的な書だろう?」
小首を傾げる日和を尻目に、紡は満足気に頷いた。
ウエストバンクーバーからのフェリーが発着するスナッグコーヴの直近に、紡が小さな店舗を借りることが出来たのは全くの幸運だった。
島には幾度となく訪れていたが、土地の値段が思ったより高く店を構えるには圧倒的に資金が不足していたのだ。
しかも出店出来るのは、フェリー発着場から島内に向かう、全長数百メートル程度のメインストリート周辺のみと限られていて、そこには既に個性的なカフェやレストラン、雑貨の店などが立ち並んでいた。紡の様な新参者には、既存の店舗の空席を待つしか方法が無かったのだ。
「リヴに言わないと。今週中に店を開けるって」
オリヴィアとは半年ほど前にこの島を訪れた時、地元のバーで偶然出会った。
彼女は片言ながら日本語が話せて、紡の拙い英語にも腐らずに耳を傾けてくれた。聞けば、過去に五年間ほど日本に住んだことがあるらしく、その話で二人は直ぐに意気投合した。彼女はここで小さな雑貨屋を営んでいたのだが、店を畳むと言う。それならと言うことで紡は、ここで商売させてくれないかと頼み込んだ。紡の実直で飾らない人となりに感心したオリヴィアは、その申し出を二つ返事で受けた。
こうして弁当屋「季節」は、店主である紡と、ワーキングホリデーで現地の語学学校に通う日和の二人で、そのスタートを切ることとなった。
四月も中旬を過ぎると、徐々に晴天の日が増えてくる。
後二ヶ月もすれば、夏のハイシーズンが訪れる。別荘の多いこの島は、その頃になると途端に観光客で賑わいを見せ始める。紡の狙いもそこだった。
何としてでも、今夏が過ぎるまでに出店して店を軌道に乗せなければと思い、彼は無理を承知の上で日本の両親に借金してまでこの店を始めた。彼にとって、この店はここに留まるための理由であり、夢であった。
その日は朝から雨が降っていた。北海道と同じ緯度に位置するこの島には似つかわしくない強い雨足の、所謂土砂降りだ。
「わあー、凄いね今日は! どうしちゃったのかしら?」おにぎりを包みながら日和が呆れ顔で言った。
「こんなのは珍しいな。日本では普通だけど」濡れた頭をタオルで拭きながら、紡が首を捻る。紡は迷っていた。
これだけの雨だ。ダウンタウンの街中ならいざ知らず、この島では客足に影響することは疑いようがない。事実、周りの店は全て閉まっている。開けているのはうちだけだ。
「なあ日和。今日はもう——」言い掛けて紡は、いきなり言葉を失った。「何?」不思議そうに日和がこちらを見ている。
窓の外で何かが動いていた。最初は鹿か何かかと思ったが、雨で霞んだ向こうに見えるそれは、二本の足で立ちヨロヨロと頼りない足取りで、少しずつ此方へ向けて歩んでくる。
あれは——人間だ。
「アーユーオッケイ?」
紡が慌ててドアを開ける。日和は両手で口を押さえて、その様子に見入っていた。
「あの、すみません。ちょっと入らせてもらっても——」
「あ? はい、どうぞ。早く中へ」
女性が店に入ると同時に、紡はドアを閉めた。
「大丈夫ですか? これどうぞ。使って下さい」
日和が差し出したタオルを受け取り、紡が女性へと差し出す。女性は「ありがとう」と礼を述べ、せっせとそのタオルで頭と身体を拭き始めた。
「私、着替えをとってきます。紡さん、お茶か何か——」
言うが早いか、日和はレインジャケットを頭から被り、傘を片手に雨の中へ駆け出して行った。
「ああ、頼む。さ、取り敢えずこれを使って」
飾りとして店に置いてあったペンドルトンの分厚い羊毛のブランケットを差し出し、紡は女性に濡れた服の代わりにするよう促した。
「表に出ていますから、心配しないで」
「大丈夫です。ここに居て下さい。後ろを向いていて貰えれば結構ですから。どうかそのままで」
「いや、でもそういう訳には——」
言っている側から、女性はブランケットを体に巻き付け脱衣し始める。紡は驚いて女性に背を向けた。
「ごめんなさい。でも本当に気になさらないで」小鳥の囀るような女性の声に、紡は緊張を隠せない。
「私、ブレンダと言います」
「ブレンダさん? 日本語お上手ですね。この島の方ですか?」
肩まであるブロンドの髪と深い海のような青い瞳、キリッと整った容姿とは裏腹に彼女の日本語は驚くほど流暢だった。
「それが、良く覚えていないんです」ブレンダと名乗った女性は申し訳なさそうに答えた。
「覚えてない?」
「ええ、名前と言葉と……。日本語が分かるので、日本人だと思うのですが」それ以外、肝心のことが思い出せないと、彼女は続けた。
「それは、記憶が無いとか、そういったことなのですか?」
「はい。私が誰で、どこから来たのか。何をしていたのか。さっぱり思い出せないんです」溜息混じりにブレンダが言う。
これは、本当のことだろうか? 突然の告白に、紡は、これが夢か現か判断し兼ねていた。何か目的があって——例えば、油断させておいて金品を奪うといった強盗の類だとか? 否、この華奢な少女には何の悪意も感じられない。第一、薄っぺらい布の洋服を一枚纏ったきりで、銃も刃物も隠せないではないか。少なくとも表面上は。最も今時、一目見ただけで判断できるほど人間は単純では無いのだろうが。
「あのう、お湯を頂いても?」
「あ。ああ、どうぞどうぞ。その為に挿れたんですから」
不意を突かれ、紡は、思わず下手に出てしまった。自分が考えていることを見透かされているような気がして気恥ずかしかった。
「こんなに、降るんですね」
「いや、こんなこと年に一度あるかどうか。普段は、もっと細かい霧雨のような——」
「ただいまー!」日和が帰って来た。大きなショルダーバッグを肩からぶら下げている。
「お帰り。ごめんね」
「良いんです。それより、早く着替えて」
「そうだな、じゃあ今度こそ僕は出てますので」
そう言って、紡はブレンダをチラッと見た。
息を飲んだ。
憂いを帯びた青い大きな瞳と、春の雪のように真っ白いふわふわの肌。肩まで伸びた髪は、濡れた質感を帯びて、艶々とした黄金色に輝き、そこから滴る雫の一粒一粒が、まるで宝石の様に煌めいている。
妖精のようだ——紡はすっかり見惚れてしまった。
「ありがとう御座います」ブレンダが言う。それを聞いて我に帰った紡は、「じゃあ」と言い残して表へ出た。
いつの間にやら、雨足はすっかり弱くなっていた。
(彼女の言ったことは本当だろうか? こんな所へ、そんな状態で、どうやって外からやって来れたのか?)
「いいよー」ドアを開ける音がして日和が声を掛けてくる。紡が店の中へ入ると、酸味の効いた彼のお気に入りの珈琲の香りが鼻腔を擽った。
見るとブレンダは店の椅子に腰掛け、珈琲を啜っている。背格好が似ているらしく、日和の持ってきた無地のシャツとジーパンが、まるで自分の物のように馴染んで見えた。
「どーぞ。社長」戯けた素振りで、日和がカップを紡に差し出した。
「社長はないだろう。いつも通り紡でいいよ」バツが悪そうに紡はそれを受け取る。
「それはそうと」日和がブレンダの方を振り返った。
「ブレンダさん。さっきの話は本当なの?」
どうやら日和も話を聞いていたらしい。それにしても単刀直入な聞き方だ。
「はい。何も覚えていないんです。本当に、何も……」
「警察に連絡すべきだよな」紡が言うと、「それは……。御免なさい。何とかなりませんか」と即座にブレンダが反応した。
「でも、このままじゃ」
「お願いします。直ぐに出て行きますから」
「出て行くったって、どこへ?」
ブレンダは黙って俯いた。見ようによっては、考えを巡らせている様に見えるが、実際のところ、どこにも行く当てがないのだろう。当たり前だ。自分の住所も電話番号も、およそ名前以外のもの全てを喪失してしまっているのだから。
「あのさあ、取り敢えず、ここで働くってのは、どう?」唐突に日和が口を挟んだ。
「ええ? だって、SINナンバーも分からないのに、どうやって? それに、住むところだって——」窒息寸前のような青い顔で、紡が反論する。
「あの、ここに住まわせて貰っちゃダメですか?」ブレンダが言う。
「もし、宜しければですけど。私の記憶が戻るまで。その、何でもします。どうか——」
暫くおいて下さいと、彼女は紡に訴えた。
「しかし……」紡は煮え切らない態度で言葉を濁している。
「いいんじゃない? これから、夏に向かって忙しくなるし。私も少しは休みが欲しいし」日和が紡を睨んだ。
「SINナンバーは? 無いと雇えないんだぞ。それに泊まる所は?」
「SINナンバーって?」ブレンダが尋ねる。
「ソーシャル・インシュランス・ナンバー。社会保険番号とでもいうのかしら。この国で合法的に働くには必要なの。でも記憶が戻るまでの期間限定だし、アンダーで雇えば? いつもニコニコ現金支払い」日和は呑気な口調で言った。
「それに、住む所ならあるじゃん」
「どこに?」
「どこって、ここに決まってるでしょ」
嫌な予感が当たった。日和はブレンダに「そうだよねー」と言いつつ、二人で手を取り合って喜んでいる。
「駄目だ」
「駄目って、何故?」
「SINナンバーの件もだけど、ここに住むなんて。もっと駄目だ。若い女性がたった一人で、こんな所に」
紡が話している最中に、急にブレンダの両目から涙が溢れ出した。肩が小刻みに震えている。
「酷い! そんな言い方ないでしょ! 彼女、行く所が無いんだよ」目をひん剥いて反論する日和に対し、「いや——そうは言っても」と、消え入りそうな声で紡も抵抗を試みた。
「泊まる所なら、リヴに相談してみようよ。取り敢えず、今夜はここに泊まって貰って」日和の勢いに押され、徐々に紡は意気消沈してゆく。
「彼女どう見てもまだティーンだよ。こんなうら若き少女を、こんな状況で見捨てて、暗い森の中に放り出そうというの? 見損なったわ」日和は畳みかけた。紡は押し黙るしかない。これ以上反論出来ないと悟った彼にとっては苦渋の決断だった。
「ありがとうございます」というブレンダの顔を見て、彼は心配なような、嬉しいような複雑な気持ちになった。
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