指で剥がして医者の前に並べられたら。

 だが、そうまでしても答えは得られないと分かっている。


「食事が冷めてしまいます。お腹が一杯になれば気持ちが落ち着きますよ」


 確かに言う通りだと箸を取る。

 空腹を訴える音が鳴り、人心地が付いた。

 

 物を口に入れるのは久し振りな気がした。

 ゆっくりと咀嚼し米の甘みを口内に留める。

 素直に美味しい。

 味噌汁が喉を通る、胃に収まる。

 そうした感覚のお陰で苦痛を忘れられた。


 容器のちぐはぐな材質は気にならなかった。

 何故なら、手に良く馴染んだからだ。


 かえりたい。

 雲のように五文字浮かぶ。

 何処へ?

 それが分からない。


「貴方は本当に医者ですか? 」


 味噌汁の旨味で鼻から息が抜け、肉と山菜の煮物を入れた容器を手に持った直後、いきなり問いが飛び出した。

 

 彼を見詰める医者に急激な変容が生じた。


 瞳孔が大きく膨張して白目を圧し、黒く単一に塗り潰され潤湿の失せた角膜によって投げた問いは弾かれた。

 感情の消失した面は昆虫を連想させる。


 失言という認識は一応あった。

 現在、脳は手足以上に機能不全に陥っている。

 

 魂が不自由な檻から抜け出し外から眺めているだけといった、何処か他人事めいていて気まずさを感じない。

 煮物の入った容器を持った儘、動作は止まっていた。


「先ず名前からです。思い出すのも思い出さないのも貴方次第ですが」


 医者の口調は明瞭で迷いを感じさせなかった。

 言う通りだ。

 医者が医者でなかろうと彼岸花が枯れていようと今はどうでも良い。

 

「あ……」


「あ? 」


 鏡映反転したように細かい動作を同じくする。

 

 あ、の形で口を開いた儘、次が中々出てこない。


「名前の始めは、あ、です」


 暫しの沈黙の後、スムーズに舌が滑った。

 意識的な発言では無いのに語気に確信が籠っている。


「間違いないんでしょうか? 」


 医者の黒目が再び膨れ、身体と共に迫ってくる。


「間違いありません」


 そうだ、間違いない。


「いいでしょう。一つずつでも、名字からでも思い出して行けばいい。そして、思い出さないのも自由です。食べないのですか? 」


 脅すような言い方だ。

 湯気が立つ煮物に視線を落とす。

 箸で少量挟み口に入れると、これまた旨かった。

 記憶に無い肉の味。

 肉の味まで忘れてしまったのかと不安が過る。


「これは何の肉ですか? 」


 また問いを一つ絞り出した。


「山に住む獣の肉です。お口に合いましたでしょうか? 」


 淡々と返される。


「はい」


 医者との対話は根っ子が無く心許ないが、靄々した塊が問いという形で排出され圧迫感が和らいだ。


 目の前にいる医者が医者であるかよりも、医者が自分の事を良く知らない方が確かな事だ。

 医者から積極的に発せられた問いは「名前」についてだけなのだから。


 彼岸花が枯れている事も、頭に浮かぶ唯一の女性が母であるかよりも、一文字ずつでも自分の名前を積み上げる事が大事だ。

 自分から問いを発しなければ前に進めない。

 記憶の糸口は問いの先にある。

 また疑問は自然に沸くだろう。


「書く物を貸してくれませんか」


「ええ、勿論」


 医者が腰を上げ、部屋の隅にある棚の引き出しを開けゴソゴソと中を探る。

 また頭痛がして水晶体のピントがぼやけ、医者の姿が二重にブレた。


 瞬きすると医者の輪郭は元に戻っていた。


 棚は前から其処にあっただろうか。

 ふと、疑問が沸く。

 

 新たな疑問を口にする前に医者が振り向き、ボールペンとメモ帳を差し出してきた。

 受け取るやカチカチっとペン尻を何度も押しては先を露出させ引っ込めるという動作を繰り返す。


 ボールペンの先を繰り出す音のリズムが耳から脳に伝わり微弱な波が生じる。

 指が止まらない。

 耳と指、それ以外は全て真っ白。

 

 ボールペン自体に馴染みがあるだけなのか、音に覚えがあるのか。

 脳内に張り付いたアメーバが、スピードを早める音に反応して高い山を作り再び平坦になる。

 指の腹が赤く、付け根が痛くなる程ペン尻を押したが答えが表れる事は無かった。


 諦念の溜め息と共にメモ帳に視線を移す。

 メモ帳を捲り、白紙に五十音を並べていく。

 ペン先を押し付け、あ、に濃く丸を付けた。


「先ず、一文字」

 

 呟いた後、全身が軽くなった。

 溜め息が長く続くのは、呼吸さえ止めていたからだ。

 一点に留めていた視野が、ゆっくりと広がっていく。


 彼がボールペン一本に囚われている間に、医者は膳を持って部屋から出ていったようだ。

 緊張が更に抜ける。


 布団の脇のランタンが作る白い光の円に瞳が揺らぐ。

 円の内にある彼岸花の紅の花弁の瑞々しさが、古びて退色した壁や襖で囲まれた部屋で唯一生命を誇示していた。


 今は漠然と夜と認識したが、時に対する意識は遠くにあった。

 名前を思い出す事、今はそれ以外に強く意識を留めるべきではない。

 そうだ。

 自分の名前以外に関心を持ってはいけない。

 強く感じた。


───


 ヴーンヴーンヴーンヴーン


 繰り返される機械的な音。

 何かの羽音のようでもある。

 意識は虚ろなのに、違和感だけは截然せつぜんと区切られていた。

 相応しくない、という表現が相応しいのか。

 脳は覚醒していても身体が動かない。

 金縛り。

 無意識下に沈められている経験から現状を悟った。

 

 微睡みにある方が記憶にアクセスし易いようだ。


 名前の一文字目を口にするのにあれ程苦労したのに難なく思い出した。

 名字は「あらまつり」

 早く書き留めなければ。


 瞼を開け。

 起き上がれ。

 唇が微かに動いてぶつぶつと指令を発する。

 重い瞼を意思の力で抉じ開けた。

 まるで錆び付いた扉だ。

 瞼だけではない。

 身体は布団ごと鎖で巻かれたようだったが、その代わり心は四方八方に向けて開かれていた。


 

 

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