彼が目覚めたのは布団の上だった。

 脳の指令を伴わない反射的動作だけで痛みを覚えた。

 頭、腕、脚、腰。

 何処に痛みの根元があるのか分からない。


 頭が左に傾き、包帯が巻かれた腕と添え木で固定された左手中指に視線が止まった。

 どうやら骨折しているらしい。


「目が覚めましたか」


 直ぐ傍から男の声が尋ねた。

 始めはボンヤリとして、徐々にピントが合った先に白髪の小さな老人の姿があった。


「此処は? 」


「村の診療所で、私は医者です。大した怪我で無くて良かった」


 眉を顰めるも良く思い出せない。

 無理矢理記憶を掘り起こそうとしたら頭痛がした。


「これを飲んで」


 老人が湯呑みを差し出してきた。

 中身は茶色の液体で見るからに苦そうだ。

 

 本当に医者なのかと疑う状況ではない。

 湯呑みの中身についても。

 素直に受け取り一気に飲み干す。

 やはり苦い。


「良くなるまで此処にいた方がいいでしょう」


 異論は無かった。

 沈黙が流れる中、部屋を見回した。

 全体的に薄暗いが、明かり取りの為か上部にポツンと穴が開いていた。

 布団の下にはイ草の磨耗した古畳、壁には茶色い染みが目立ち、医者の背後には所々紙が剥がれた襖。

 診療所と言っても普通の家屋で治療を行っているのか。


 枕元には真っ赤な彼岸花が花入れに一輪。

 脳裏に何かの映像が一瞬浮かび直ぐに乱れた。

 

「貴方の手に握られていたのです」


 彼の視線を追ってか医者が静かに告げた。


「お名前を聞いていない」


「あ……あ……み……ああ」


 名前を答えようとしたら口辺の筋肉が引き攣り意味を成さない音だけが溢れた。


 五十音、濁音、選べない。

 名前、名前、自分の名前。

 脳に集まり過ぎた血で逆上せ、深い海に潜るように耳奥がツンと痛む。

 咄嗟に上げた片手が包帯に触れ、頭にも怪我を負っていると知った。


「やはり、記憶が欠けてらっしゃる」


 医者を凝視する余り目の際がぴくぴくと痙攣し、両手で頭を抱え込む。


「母がいた筈……」


 小さな声に反して顎が前に突き出る。


「誰にでも母はおります。そのうちお名前も思い出すでしょう。先ずはゆっくり……」


 猫なで声で言った後、医者はゆっくりと立ち上がった。

 腹筋力の衰えによる前屈みの姿勢のせいで背の小ささと老いが強調される。


「厠は部屋の隅に。動くのが辛いようでしたら此方に」


 側に置かれた尿瓶に不自由さを実感した。

 

「何かあれば其処にある紐を引いて下さい。外に通じて音が鳴るようになっています。私でも他の者でも参ります」


 そう言い残し襖を開け老人は出て行った。


「あーあ……」


 一人になると緊張が解け、声を伴う溜め息が洩れた。


 自分は何故此処にいるのか。

 それよりも先ず名前だ。


「ん……うっうっ」


 喉の奥で音が痰のように絡まり息が苦しい。

 それは違うと脳が訴えているかのようだ。

 母の姿らしき映像がぼんやりと浮かんだ。

 自分の名さえ思い出せないのだから、それが母であろうという曖昧な認識が、彼が現在持つ唯一の記憶だった。


 自分は誰か。

 頭に浮かぶ年老いた女性は本当に母なのか。

 

 今は考えまい。

 枕元に置かれた真っ赤な彼岸花を一瞥した後、彼は瞼を閉じた。


──


 カタリ


「ああ、起こしてしまいましたか」


 微かな物音で目を開けると、直ぐ真上に医者の顔があった。

 ドキっと心臓が跳ね上がる。

 良く知らない他人に密着せんばかりに顔を近付け覗き込まれているという不気味さと違和感。

 白目が極端に少なく黒目の範囲が多い。

 その黒い目玉に当惑した表情の男が映っていた。


 男は自分だ。

 そう強く認識する必要があった。

 

 医者の目玉が何かと重なりそうになる。

 記憶が膜を破り、そろりと鼻を覗かせた。

 しかし、それを咄嗟に掴もうとする前に引っ込んでしまった。


「何か大事な事を忘れている」


 自身に向けて呟いた。

 


「色んな事をお忘れでしょう。私達は御世話をする事しか出来ませんから。食事を用意しました」


 湯気の立つ膳が布団の側に置かれる。

 御飯や味噌汁、何かの煮物といった定番の和食だが、盛られた器はプラスチックやアルミ製、紙皿と纏まりが無い。


 何処かで見たような。


 枕元にふと目を遣り顔が強張る。

 彼岸花が枯れていた。


「尿瓶の中身は捨てておきました。お名前は思い出しましたか? 」


 視線の先を尿瓶と取られた事も下の世話までして貰った事も、何れもバツが悪くて顔が熱くなる。


 所在無く動いた手が頭の包帯に触れ、次に指に当てられた添え木に目を移す。

 

「何も思い出せません。私はどうして怪我を? 」


 漸く一つの疑問が形となり放たれた。


「山から落ちてしまわれたようです」


「山……」


 記憶にない。

 だが一つ理由が分かって ほんの少し靄が晴れた。


 記憶は無くとも頭は空っぽではない。

 常に何かの像が揺れている。

 白かったり黒かったり赤かったり、全てが混ざったり分かれたり。


「何故、私は山に? 」


「さあ、それは分かりません」


 馬鹿な質問をしたものだ。

 自分が自分を知らないのだから、赤の他人が山を訪れた目的を知る由も無い。


 沈黙が流れて視線が泳ぐ。

 頭の中には疑問が沢山詰まっているのに、アメーバのように不快で意味もなく頭骨の裏にこびり付いているだけ。


 

 

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