一筋の光さえ無い真の闇だった。

 その筈だったが、「あらまつり」には見えていた。

 唯一動かせるのは眼球だけ。


 部屋の隅に暗澹と湿った空気が溜まり、固体以上の密度で生命力の対義的負のエネルギーを盛んに放出している。


 不穏な機械のような音に被せて赤ん坊の火の点いたような金切り声が部屋中に響き渡った。


 視覚は此処は闇なのだと主張している。

 それでも「あらまつり」は赤ん坊の姿を捉えていた。

 ボンヤリして、且つ詳細だった。


 臍帯を引き摺りながら「あらまつり」の方に這ってくる。


 臍帯にも身体にも血と白い胎脂がこびり付き、椀のように腫れた両瞼の隙間は糸のように細く、機能の未熟な眼が埋もれている。


 胎脂と血の跡を畳に残しながら這い進む。

 歯の無い小さな口を歪め狂ったような泣き声を響かせ、「あらまつり」の精神を削り取っていく。


 その姿は幼虫や内臓のように生々しく、老人のようで萎びた柿のように悄然として、生理的嫌悪を抱かずにはいられない。


 しかし、赤ん坊が近付いてくるや、「あらまつり」の両腕の縛めは解かれ、迎え入れようと前に伸ばされた。


 臍帯がピンっと張り、赤ん坊は後少しの所で動きを止め、顔を少しだけ後ろに振り向けた。


 つられて「あらまつり」の視線が赤ん坊の背後の闇に吸い寄せられる。


 裸の女性がいた。

 出産という難行には相応しくない高齢の女性だった。

 乾いた髪は白髪混じりで顔の皮膚は薄く骨格を露にし、乳房は葡萄のように垂れ下がり背骨は湾曲して肉は弛んでいる。

 

 女性の脚の間に臍帯が続いていた。

 死に近しい者が命を生み出すという矛盾。


 赤の不浄。


 女性が謎の言葉を紡いだ。

 幻聴なのか、若しくは全てが幻覚なのかもしれない。


「──私の名前は? 」


 そう、はっきりと聞こえた。

 そして、私の名前は、と問う前に自分の名前を呼んでいた筈。

 なのに其処だけ聞き取れなかったのか、それとも記憶として着床出来なかったのか。

 女性に圧倒され聞き返す事が出来ない。


「私の名前は? 」


 老いた女性がもう一度声を発した。


 「あらまつり」に人差し指を向け、じっと焦点の合わない眼差しを注いでいる。

 不思議と恐怖は沸かず、自分と同様彼女も自身に関して記憶が曖昧なのだろうと感じた。

 脳内のアメーバ化した記憶から糸口が覗き、度々浮かぶ女性の正体に直結しているように思えた。


「あらまつり……」


 彼の口をついて出たのは思い出したばかりの自分の名字だった。


 すると女性は「あらまつり」の側に寄り、メモ帳を開いて漢字を二文字記してみせた。


「荒祭」と。


 その後、耳元で何度も囁かれた事は覚えている。

 荒と祭の漢字の由来を。

 子供に字を教える母のように。


 いつの間にか、赤ん坊は消えていた。


──


 紐を引く前に医者が襖を開けて姿を現した。


「私の名字は荒祭です」


 荒祭は赤ん坊と女性を夢と捉え、見たのは昨晩の事と認識していた。

 つまり、今は朝。


「それは良かった。後は下のお名前だけですね」


 医者の目元に微笑みの皺が刻まれる。

 福耳は垂れて肩に触れる程だが、このような特徴があっただろうか。

 記憶している姿と違う気がした。

 その記憶自体に自信が持てないのだから厄介だ。

 今と自分という起点があやふやな状態は、さながら無重力空間に放り出され、前後左右の感覚が薄れていくのに似ていた。


 布団の側には食事を載せた膳。

 枕元には──

 彼岸花が茶色に萎びていたが、それは今や彼にとっては何も変わっていない事の一つの証だった。


 医者の容姿などはどうでも良い。


 名前を思い出せなければ、ずっとこの部屋の囚われ人であり、ともかく医者に従うしか無いと考えている。


 今の自分は赤ん坊のようなものだ。


 殆んど無意識に動いた指が、藪のように密生するゴワゴワした髭に触れた。

 一瞬驚いて瞼を持ち上げるも、ゆっくりと撫で回すうちに記憶の迷路に囚われていく。


 何時からこんなに髭が伸びていたのだろうか。

 それとも髭は此処に来る前から剃っていなかったのだろうか。


 名字だけだ。

 指に当てられた添え木も、頭に巻かれた包帯もその儘だ。

 彼岸花は直ぐに枯れてしまうのに、医者が医者であるかも分かっていない。


 痒い。


 口辺を念入りに撫でる指が止まり、両手でいきなり髭を掻き毟った。

 痛みに顔を顰めながら雑草のようにブチブチと引き抜いていく。

 根っこから抜けた髭が畳の上に落ちた。


 今度は身体にまで痒みを覚え、衣類を捲ると大きさの異なる紫斑が地図のように皮膚に広がっていた。


 医者の存在も忘れ、がむしゃらに爪で抉られた皮膚に赤い筋が刻まれていく。


 頭も痒くて堪らず頭皮を掻くと、肩まで伸びた髪からフケが飛び散った。

 

「ぎあっぎあーーきひいーー」


 鳥獣に似た叫喚が全身から迸しる。

 深い井戸に沈められていた者が木蓋を持ち上げ荒祭の前に立っていた。

 黒い影だ。

 

「おお、これは──」


 荒祭の突然の狂乱にも医者の呼気は乱れず眠る人のようで、微かに眉を上げて声を上げただけだった。

 

「そろそろ湯を使われた方がいい。身体を浄めてさっぱりすれば、お名前を全て思い出すでしょう。御不便ならお手伝い致します」


 淡々として、荒祭とは別次元に在るかのようだ。

 静けさが喚声を包み荒祭の動きが止まる。

 折れた指から添え木が外れ、ぷらぷらと中指が揺れていた。

 痛みは感じなかった。


「うう……身体が痒い」


「名前を思い出す事です。そうすれば苦しみから──」


 医者の声は尻窄みに掠れ終わりまで聞き取れなかったが、自分の名前を思い出す事以外関心を持つべきではないと直ぐに気持ちが切り替わった。


 医者に伴われ風呂場に案内された。

 部屋の襖を開けると細長い廊下があって梯子で上に登って地上に出る。


 何かおかしい。

 妙な心地がしたが、細やかな違和感を追及する心境では無かった。


 鬱蒼と木々生い茂る山々の麓に緑の田畑、疎らな人家が視野に飛び込んで来た途端、部屋にいた時の閉塞感と視界の狭さを実感する。

 部屋は虜囚の鎖そのものだ。

 

 名前を思い出せなければ部屋に縛り付けられた儘だ。

 

 

 


 



 

 


 


 

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