第2話 少女

 夏の夜特有の心地よい風が頬を撫でる。夜道の散歩もたまにはいいかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、学校が見えてくる。校門の前に着くと友人二人は既に到着していた。


 「ありがとう来てくれて!」


 「別にいいよ。夜も遅いし早めに済ませちゃおう。でも鍵って空いてるの?」


 「どうかしら? 生徒が帰った後は用務員さんが閉めちゃうはずだから閉まっているかもね」


 微笑みながら咲が答えると、能天気な栞は根拠のない大丈夫を連呼する。ここで止まっていても仕方がない。二人を連れた雪菜はまっすぐ昇降口へと向かった。先頭にいた彼女が引き戸になっている入り口に手をかけ引っ張ってみるも用務員は鍵を閉め忘れるというミスは犯さなかったらしい。扉は開く気配がなかった。高校の防犯意識に安心するとともに、どこから入ろうかと考え始めた矢先、不思議な金属音が耳朶を叩いた。


 カシャン——


 鍵が開いた? 試しに手をかけてみると、先ほどまで開かなかったことが嘘のように扉が開く。何度も引っ張ったせいで、かかりが甘かった鍵が開いたのだろうか。いや、そんなはずは。心の中に暗雲が立ち込めるせいで棒立ちになっていた雪菜の肩越しに栞が顔を出す。


 「あ、開いたんだ。良かった! じゃぁ、入ろう!」


 何も違和感を感じていない様子の栞は雪菜と咲の手を引いて、暗闇と静寂が支配する校舎の中に入っていく。夜の校舎に三人分の足跡が響いた。昼間は太陽の光を反射して明るい廊下は、今は先ほどから顔を出し始めた月明かりを反射して青白く輝いている。


 「うぅ……なんか夜の校舎って嫌な感じ」


 校舎は大きく三つに分かれ、校門に近い方から一号館、二号館、三号館となっており、彼女たちの教室があるのは三号館だった。いつもは元気いっぱいの栞でさえ、さすがにこの暗さにおびえているようだった。一方、咲は


「早く帰って寝たいわね」


 怖がることなくあくびを噛み殺しながらそう呟いた。一号館と二号館を繋ぐ渡り廊下を通り抜け、三号館に到着すると階段を昇って教室へ向かった。通い慣れた教室だ。暗くても迷うことはない。辿り着き扉を開けると、中は廊下よりも月明かりが届きにくいためか一層暗闇が漂っている。これでは何も見えない。雪菜が壁際に手をはわせ、電気のスイッチを探り当てる。が、


 「あれ? つかない。何で?」


 「えー、つかないの? 仕方ないか」


 戸惑う雪菜の隣で栞と咲は携帯電話を取り出し、明かり代わりに使い始めた。雪菜も二人にならって画面を付け、教材でパンパンになった机から必要なものを探す栞の手元を照らしてやる。一人だけ机の中が四次元ポケットなのではと思うほど次々と出てくる教材。見つけるまで時間がかかりそうだ。手持ち無沙汰になった雪菜は窓の外に目をやる。夜の学校というものは怖かったが、同時に珍しくもあった。その時視界の端で何かが動いた。そちらへ視線を向けると、校舎と渡り廊下で繋がっている二号館に動く人影が。警備員だろうか。だが目を凝らして見てみると、それは女子生徒のよう。ロングヘアで顔が隠れてよく見えないが、一人で明かりもつけずに暗闇の中を歩いている。


 「あの子も栞と同じで忘れ物でもしたのかな……」


 訝しんでいると、廊下の角でも曲がったのだろうか。忽然と姿を消してしまった。


 「どうしたの雪菜、ぼーっとして」


 「あっちの校舎に女の子がいたんだけど、咲は見なかった?」


 「見てないけど。こんな暗い校舎に女の子が一人で来ないでしょ。見間違いよ」


 「そう……だね」


 疲労が目に来ていたのだ。きっと。


 「あったー! やっと見つかったよ。よし、じゃあ早速帰ってみんなで課題を片付けよう!」


 「そう、じゃあとっと帰ろう」


 突然あげられた声に雪菜はびくりと肩を震わせるが、すぐに冷静な表情に戻る。先ほどの人影のことが気になったが、そんなことよりも今はこの校舎から一刻も早く立ち去りたかった。ドアの一番近くにいた雪菜がドアを開ける。隙間から我先にと流れ込んでくる風が頬を撫でた時、ようやく帰れると緩んでいた三人の表情が凍りついた。学校に来るまで涼しく心地よかった風が冷気と化していた。骨の髄まで凍らせるような風に指先がかじかみ始める。


 「ねぇ……なんか、寒くない?」


 現状をすぐには飲み込むことができず同意を求めることで受け入れようと栞が言葉を発するが、どこか震えていた。教材を見つけた時の高揚感はすでにどこかへと消え去り、所在なさげに視線を彷徨わせている。冷静沈着な咲でさえ何も言わない。二人が微動だにしない中、最初に廊下に踏み出したのは雪菜だった。この状況はおかしい。何が起こっているか考えるよりも、校舎を出ることが先決だ。雪菜が一歩踏み出したことで、咲と栞も彼女に続く。足早に元来た道を戻り、三号館から二号館に続く渡り廊下を歩く。


 「っ!」


 二号館に踏み込んだ瞬間冷気の厚さは確実に増し、肩に何か重りを乗せられているよう。胸も苦しく、息もどこか吸いづらい。


 「雪菜、何なのこれ!」


 「こっちが聞きたいよ!」


 恐怖のせいで雪菜はついつい声を荒げてしまった。冷静になろうとしても十分に息が吸えない状況では落ち着こうにも落ち着けない。早く、外へ。さらに歩く速度を上げ、一号館に続く廊下に行くため角を曲がると、三人の視界の先に一人の少女が飛び込んできた。


 「あ……あの子だ……」


 「え、誰? 知り合い?」


 雪菜が震える指先を伸ばすと、栞は寒さのために歯の根を鳴らしながら尋ねてくる。


 「違う。けど……さっき見た子なの」


 「雪菜がさっき見たって言ってた子、本当に一人でいたのね」


 雪菜が言っていたことが何かの見間違いではなく現実だったことに、咲は驚きで目を丸くしていた。


 「でも……」


 「うん……」


 雪菜と咲はあえて言葉の続きを出さない。いや、出せなかった。先ほどは校舎を隔てた距離であったため、はっきりとその容貌を観察することは叶わなかったが、廊下の先にいる今は差し込んだ月明かりのおかげではっきりと見ることができた。


猫のように愛らしい瞳に赤い唇を備え、口元に微笑をたたえたその顔は同性である雪菜でさえ見とれるほど綺麗だった。すらりと伸びた手足も合わさると、まるでモデルのよう。だが、着ているものがおかしい。雪菜たちが着ているものとは違う、古めかしいセーラー服。そしてどこかで落としてしまったのか、ローファーは片方だけ履いていた。


 「あの顔どこかで……」


 見たことがある気がする。喉のつっかかりを取るように彼女の顔をどこで見たのか必死に思い出そうとするが、全く思い浮かばない。雪菜が記憶を探るのに苦労していると、横で咲が少女を見ながら口をパクパクとさせている。


 「どうしたの咲?」


雪菜が尋ねても咲は血の気の引いた青い顔のまま、言葉を紡ぎだそうともがいていた。


 「咲。ねぇってば」


 再度問いかけることで、ようやく咲は声を絞り出した。


 「あ、あの子……何年か前に行方不明になった子よ。私ニュースで昔見たことある」


 咲が呟いた時だった。少女の口元が微かに動いた。


と——


少女の唇が動き終えた瞬間。首がぐりんっと一回転し、可愛らしかった瞳は墨汁を流し込んだような真っ黒に。目をギョロリと動かした少女の口元に浮かんだ笑み。その足が一歩を踏み出した。


 「やばい! 栞、咲逃げるよ!」


 その言葉でそれまで地面に縫い止められていたように動けなかった二人は雪菜とともに駆け出した。背後からは少女の足音がこだまして響いてくる。


タン、タン、タン、タ、タタタ、ダダダダダ、ダダダダダダダ——


 廊下の先にいたはずの少女は、髪を振り乱しながら瞬く間に彼我の距離を詰めてきていた。このままでは確実に追いつかれる。変貌した少女から逃げる手段を考えようとするが、酸素が頭に十分回らず思考がまとまらない。咲の声が鼓膜を揺らした。


 「雪菜、栞。このまま走っても逃げきれない。だから角を曲がってすぐのところにある印刷室に入ってやり過ごしてから、一号館にダッシュしよう」


 他にいい案も浮かばない。咲の提案に雪菜と栞が頷くと、足が速い栞が先に行って静かに印刷室の扉を開ける。角を曲がり追いついた雪菜と咲が印刷室に飛び込み、静かに扉を閉めると、少女が入ってこられないよう鍵をかける。はずんだ息を口に手を当てることで無理やり押し殺し、壁に体を押し付けた。心の中で願う。どうか気づかずに通り過ぎてと。けたたましい足音が扉の前を通り過ぎ、一度静寂が訪れる。自分たちに気づかずにどこかへ行ってくれた。三人は恐る恐る顔を上げ、目を合わせた時。再び聞こえた足音。恐怖で目を見開く三人がいる印刷室の前でそれは止まった。


ガタ、ガタ。まるでそこにいることが分かっているかのように取っ手が引っ張られ始める。どこかへ行って、お願いだからと祈る雪菜の心の声は届かず、扉はさらに強く引っ張られ始めた。


ガタ、ガタガタ、ガタガタガタ、ガタガタガタ——ガチャン


 滑らかに扉が横に引かれ、少女の青白い顔が暗闇に浮かんだ。入り口の真正面にいた雪菜と目が合う。ギョロリと動く目が何度も回転しながら彼女を見つめてきた。光を灯さず、漆黒と呼ぶにふさわしい目に意識が吸い込まれそうになる。少女は雪菜を見つめたまま、静かに近付き始めた。一歩、また一歩と近付き、動けずにいる彼女の前に来てその手を伸ばし始めた。


 「来ないで、お願い……」


 喉元から絶叫がほとばしりかけた時だった。背後から印刷室に置かれていた機械が飛び、鈍い音とともに少女を部屋の外へ吹き飛ばした。はっとして振り返ると、そこには肩で息をした咲の姿が。


 「なにボケーっとしてるのよ、死にたいの?」


 「咲、ありが——」


 「お礼なら後でいくらでも聞くから早く逃げるよ」


 廊下の壁に崩れ落ちるようにして微動だにしない少女を横目に、印刷室を飛び出した三人は走り出す。このまま走り抜ければ助かる。思わず三人の顔に笑みがこぼれた刹那、雪菜の隣を走っていた二人が消えた。すぐさま振り返った雪菜は自分の目を疑わずにはいられなかった。少女はうつ伏せに倒れたままだ。だが、その両腕は人間の限界を超えて伸び友人二人の足首を掴んでいた。皮膚の色が変わるほど強い力で掴まれた二人が雪菜の目の前で引きずられていく。


 「離して!」


 じたばたともがきながら栞は足首を掴む手を引き離そうとするが、手は力を緩めるどころか指が皮膚に沈み込むほど食い込んでいく。一方咲は足を掴んで転倒させられた時に頭を打って脳震盪を起こしたのか、ピクリともせずただ引きずられるままになっていた。


 「雪菜、助けて!」


 悲痛な叫びが雪菜の鼓膜と心を揺さぶる。だが、少女が二人を引き寄せ終わった次は自分の番。その事実に足がすくんだ。あんな化け物から助け出す自信もない。足が一歩、後ろへ下がる。それを見て、栞の目が見開かれる。


 「雪菜。お願い助けて! 見捨てないで!」


 涙目になって訴えかけてくる栞。けれども、足が動いた先は栞たちの方ではなく、その反対側へだった。


 「え……雪菜?」


 「ごめんね」


 小さく呟くと、振り返ることなく全力で走り出す。


 「雪菜! 雪菜! どうして見捨てるのよ! 雪菜あぁぁぁ!」


 怨嗟を込めた声を聞きながら、雪菜は全力で渡り廊下を目指して走る。今まで忘れていた携帯電話で外に助けを呼ぶという選択肢が頭に浮かび、服のポケットから取り出すがなぜか画面がつかなかった。苛立ち、ポケットに押し戻す。渡り廊下を駆け抜け一号館にたどり着く。これで階段を使って、一階に降りれば出口だ。二階にいた彼女が階段に足をかけた時、階段下に少女の青白い顔が暗闇の中に浮かび上がったのを見て心臓が飛び跳ねる。


 「そんな。さっき後ろにいたじゃない」


 下への道は塞がれた。階段を昇り始めた少女に追われるようにして、雪菜は階段を全力で駆け上がり始めた。その後ろを少女は獲物をいたぶるように距離を詰めるわけでもなく、離れるでもなく一定の距離を保って追いかけてくる。最上階までついた雪菜が辺りを見渡すが、ここが教室も何もない一本道であることを知り絶望の表情を浮かべた。だがよく見ると、廊下の先にドアがある。まだ希望の光はある。全力で走り寄り、ドアノブをひねるがまるで開く気配がない。


 「開いてよ!」


 ドアの開錠に悪戦苦闘する雪菜のポケットで不意に携帯電話が鳴る。振り返りながら慌ててポケットから取り出した時、音もなく近付いてきていた少女の顔が目と鼻の先にあるのを視界に入れてしまい、悲鳴をあげた。少女はその声に反応することなく真っ黒なビー玉じみた瞳をこちらに向けたまま、何かを口ずさみ始めた。


 「カーワッテ、カーワッテ」


 手の中で鳴り響く携帯電話。錯乱した雪菜は涙を流しながら持っていた携帯電話を少女に投げつけた。


 「かわってって何よ。電話のこと? それなら、その携帯電話を持ってとっととどこかに行ってよ。この化け物!」


 けれども少女は携帯電話に目もくれず、顔を近づけてくる。


 「カーワッテ、カーワッテ」


 早鐘のような鼓動を刻む心臓がうるさかったが、そんなことを気にする余裕は雪菜にはない。もうだめだ。諦め目を閉じる彼女に少女が手を伸ばした時、背を預けていた扉が開く。そのまま外に体を放り出された雪菜の体を背後から白い光が包み込んだ。意識が途切れていく。彼女が最後に見たのはこちらをじっと見つめる少女の姿だった。

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