四十週目
ウクライナがすっかりその領土を取り戻し、いよいよロシア本土を侵犯し始めた。結果としてオデッサでは核が炸裂し、その肥沃な大地をきれいさっぱり吹き飛ばした。キノコ雲の下で塹壕に引きこもったウクライナ軍の士気はいよいよ高まるばかりであった。
嘆きの壁が崩れた。初めの頃は上辺からポロポロと粉が落ちてくる程度だった。そんなことが観測された次の週には、ジェンガの如くガラガラとあっという間に壁はレンガの山と化した。嘆きの壁を構成しているブロックは一個辺り1tを超えるようなものが使用されていたし、相当深く、地下にも構造物があり、頑強にできていた。そうであるから、誰しもがテロリストの犯行を疑った。監視カメラもあることからあっという間にモサド辺りが、犯人を特定してしまうだろうというのが大方の見方だった。
イスラエル政府は崩れたとの一報が入ったあと、知らず知らずのうちに直してしまおうとしたのか、いわゆる事実確認をするために動いていたのかは知らないが、公式な声明が発表されたのは崩壊から二日後であった。
米国のユダヤロビーが遺憾であるという旨の会見を行った後、それまで様子見だった諸国のユダヤコミュニティも続々と声を挙げた。一方で、バチカンとサウジアラビア、イラン、イスタンブールは沈黙を守り、アブラハムの宗教の中で”神の怒り”という表現を用いた声明を発表したのは、ロシア正教会とISだけであった。またいくつかのイスラム過激派は犯行声明を出したが、誰も相手にしなかった。
このような事後的な証拠だけではなく、現場の証拠からもハッキリしていた。中東であるとう地理的特性からしても地震は起こりえなかった。実際、どこも地震は観測していなかった。嵐も近づいていなかった。
これらの情報は爆発でもなく地震でもなく破壊工作でもないことが明らかであったことの証左だった。
ただ不気味なことが起きている、それだけを全世界は共有した。
午前の講義が終わって、小腹が空いたのか、それとも習慣から来るある種の義務感からとは判然としないがやることもないから、学食の方になんとなく向かった。時間はあるから、映画でもみようと考えて、映画館のウェブサイトにアクセスして確認した。キングコングシリーズの第50作目と、帰ってきた寅さんしかやってなかったから、げんなりした。
食堂の前にはベンチがあって、ちょうど木陰になってたから少し座って人間観察でもしながら、混雑が予測されるであろう時間をやり過ごそうと思った。午後の授業はなかったからのんびり過ごそう、そういう魂胆である。
生協を誘蛾灯と見立てると、吸い込まれていく学生の群れが何だか可笑しかった。(――まあ俺も蛾だが) そんな風に思考を巡らせながら、少し目をつぶっていた。
浮かび上がる考えと次の思考の間隙をついて、隣からドカッという振動が来た。随分と非常識な奴がいたもんだと思って、敢えて迷惑そうに視線をやってやろうと目を開けると小林がいた。
小林という男の風体はマスクを着けていると、完全な二枚目であり少し近づきがたい雰囲気をまとっているが、マスクの下には八重歯が隠れており、性格も人懐っこい。マスクをつけざるを得ない近年の情勢は彼にとっては中々やりずらいだろう。
彼の脇には今となってはクラシックですらある新聞が折りたたまれて挟まれており、これは私の興味を誘った。
小林は、民俗学を専攻していたから、この手の宗教ネタにも造詣が深い。私も件の事件は、これから様々な諸宗教勢力が事件を引き起こすだろうなと考えると――元々下世話な性格であったが――興味が絶えなかった。
「今日は学士さまって風体で新聞なんて読んでどうしたの。普段はネットニュースじゃない」
「あんまり面白い話題だもんで、思わずキヨスクで買っちまったのよ」 彼はそうはにかみながら少し芝居がかったセリフを吐いた。
「んでその新聞には、なんて書いてあるのさ、わざわざ買うくらいなんだからなんか載ってるんでしょう」
「いいか、日毎新聞の望月記者によるとだな――つまりは何もわからないということがハッキリした、というわけだ」
「Twitter以下かぁ」 そう答えて小林の方を見ると少し申し訳なさそうに苦笑いしていた。
結局、嘆きの壁崩壊事件の話はこれで終わってしまった。お互いに昼飯を食べていないことがわかったので、このまま学食で食べようということでまとまったのだった。
ズラッと食堂から飛び出て、外まで伸びるソビエト末期を想起させるような行列を見た途端に、胃がズッと重くなったのを感じて、やめにしようかと声をかけようと思ったが、小林は引っ切り無しに 自分に今日のメニューのコロッケは安くていいだとか、サラダを付けるか否かはお財布次第という話を満面の笑みを浮かべながらこちらを見るものだから、相槌を打つことしか出来なかった。
空調が絶妙に入った室内に入ると、なんだか急に食欲も湧いてきた。あれだけ暑い外気に晒されていれば、そりゃあ食欲も失せるか、とか思案しつつ、小林と課題の具合を話している内に、グングンと列は進んでいく。
結局、小林はサラダを頼まなかったようだ。聞いてみると財布に三百円しかなかったらしい。自分は三千円近く持ち合わせがあったが、小林の1.5倍位の量にとどめた。ギリギリで食費を切り詰めている彼の手前、豪勢に頼むのは気が引けたし、彼は食べるのは割合遅い方だったから、食べ終わる時間を合わせる狙いもあって、少しばかり増やした。
「お前って結構食べる方だよな、案外」 小林は自分の盆を一瞥しながらそう言った。確かに彼の盆の上にはコロッケと、大盛りのご飯だけである。
「嫌味だなあ。しょうがないだろ。腹が空いていたんだから。」
「普通、そういう時はな、気を遣ってネコマンマとかにするもんなんだよ、ところがお前ときたらなんだその量は!」 と冗談めいた調子で非難してきた。
「まぁ、そういう言わない。これでも気を遣って減らしたんだ」 こう返すと彼ははにかみながら丁度、並んで座れる椅子を見つけて、目配せしていたから、こちらもこくりと頷いて同意した。
先ほどとは異なり、彼は丁寧に腰かけた。多分、元々の性分はこちらなのだろう。自分も座って、お盆を机においてから、水を持ってくるのを忘れていたからもう一度立ち上がると、それに気が付いた小林が、持って来てくれた。
「ありがとう、混んでるから嫌だったんだ」 そういいながら受け取った。
「いいってことよ」
マスクを互いに外すと、彼の八重歯が見えた。自分の無精ひげが少し気恥ずかしかった。
「ところで、あの件でどこの国が最初におっぱじめると思う?」 自分のコロッケをつっつきながら話しかけた。
「そうさなぁ、まあ大方イライラ国境は、大変になるだろうなぁ。そうそう、サウジなんだが・・・・・・――いただきます――あそこの皇子が今度、国王に就任するとか・・・・・・」
「君、存外にしっかりしてるよなぁ」 苦笑交じりに、話を遮って小林のマナーの良さをいじってみた。
「親が厳しかったのさ」 そういって八重歯をみせた。
「それで、サウジがどうしたんだ?」
「今度はそっちか、オスマン帝国的権力闘争さ、また皇子が死ぬだろうなあ・・・・・・」
その日、小林は午後の講義には行けずじまいだった。
重々しい会議室。コーヒーをすする音だけがその場で存在していた。懸案事項は色々あった。当然のことだ。半年後の食糧輸入はめどが立たず、軍事支援をしなければ他国からの目が痛い。その上、嘆きの壁は崩壊した。イスラエル首脳部は苦悩していた。民心の動揺は建国以来これまでない程であった。結果として安息日明けの昼過ぎから会議がもたれた。こんな状況であっても安息日は絶対であったのだろう。
財務大臣が、眉間にしわを寄せながら、冷めたコーヒーを再び啜った。少しばかり目を上げると、ドアが開き首相の秘書が入ってきた。彼が何かを耳打ちすると首相は驚愕したまま何度も、確認していた。
「会議は中止です」 次に放たれたその一言は異常事態の発生を物語るものであった。
「今度はキエフにでも炸裂しましたか」 国防大臣が軽口を叩いた。
「ことによるとそれの方がマシかも知れません。とにかく皆さん、なんでもよろしいですからご自分の携帯電話からSNSを開いてください」
一同が困惑しながら、確認すると驚愕というより、一周回って平然としてしまった。一瞬、全員の呼吸音が同時にしなくなった。
皆、同じ動画を再生していた。場所はやはり、嘆きの壁跡地。黄色いテープが現場保全のために張り巡らせてある。
カメラが急に上空に向けられた。その日は快晴であった。だが現場は異様に薄暗かった。太陽の光を遮る”何か”があった。もはや瓦礫しかないはずなのに。
最初は卵を横にしたような形の太陽が二つあるのかと思った。しかしそれは人間でいうところの目に相当する部位であることに程なくして気が付いた。巨人がそこにいたのだ。顔は表情があるようにも見えたが、人間の口というよりかは、仏像然とした、笑みをたたえていた。全身が金属でできているかはわからないが、光沢を帯びており、赤いラインが血管を思わせるように銀色の肌を走っていた。胸の中心には青色のライトのような部位もあった。
「別のアングルもあるぞ!」 農水大臣がそう叫んだ。
背中を映した映像だった。先ほどの動画よりも遠くから撮影されたものらしい。周囲の風景から大きさは40m程度であるとわかった。また背ビレのようなものが頭から尻まで続いていた。八頭身で美しいギリシア彫刻を思わせる体格は、美しい。そして、しばらく沈黙を守った後、忽然と霧散した。動画はそれっきりであった。
この映像は全世界のSNSを席巻した。トレンドランキングには巨人の文字が踊り、誰しもがこの巨人をみては、それぞれが所属している宗教に沿った物語を当てはめた。
フェイクニュースであると知識人は冷笑していたが、娯楽に飢えていた市民からすればどうでもよかった。
情勢も良くなかった。戦争と食料不足、コロナによる厭世観の広まりは、明らかに世紀末を思わせるものである。そうであるから恐怖よりも、希望を感じる人間の方が大多数であった。まさに神として迎えられたのである。
大方の予想に反して、戦争は発生しなかった。誰しもがアブラハムの諸宗教がかの存在が、”どの預言者”のために来たのかで揉めるはずと考えた。しかしそこまで人類は利口ではなかった。もはや終末はきませり、ということである。自分の宗教に沿った神であるのだから、いずれにしても救済はくる。神がついに『沈黙』を破ったのだ!
新興宗教の類は、全くといっていいほど見向きもされなかった。これまでの宗教権威がますます強化され、比肩するものがない程だった。困った事になったのは、一神教以外を用いた宗教権威である。太陽の子孫だとかは説得力を持つことが出来なくなった。それを前提として構成された憲法すら権威をドミノ倒しに失った。ある国では保守派が強力になったとおもうと、別の国では保守派は全滅に等しい状況に追い込まれた。
これだけのことがたった一週間に全世界で同時多発的に発生した。ニュースは情報過多であり、却ってインターネットの方が整然としていた。
次の週にもそれは顕現した。同じ時間、同じ場所に同じように黙りこくって、そうして同じ時間に霧散した。まだまだ終末はこないという確信と、これからもそれは顕現するという喜びが、世界中を包み込んだのである。
善く生きよう、清く生きよう、隣人に愛よ! 戦地ではクリスマスの奇跡が連続して起きた。歩兵が動かない戦場で、なにをどうしようか。
世界は平和になった。
非キリスト教国では、来たるその日に備えて急激な信者の増加をみせた。バチカンでは神父が足りないことを問題視したほどである。バスに乗り遅れるな! 東アジアはバチカンブームである。
株価は暴落した。未来は見えたからだ。あの世で配当は貰えない。こんな事を報じた媒体は皆無だった。
ユダヤ教徒ですら、安息日は日曜日に変更されつつあった。アメリカの正統派ユダヤコミュニティも遂に、約束の地に戻るときが来たのだと歓喜しながら続々と、イスラエルに移住を始めた。宗教はついに”科学”へと返り咲いたのである。
世界中が”終活”をドンドン進めていった。
39週目を過ぎ、来週もそれは来ると期待しながら40週目を迎えた。しかし巨人は来なかった。遂に終末がきたのである。ジェリコのラッパが鳴り響き、死人は墓から復活する。そうして救われる。千年王国が来るのだ! 誰しもがそれを期待した。
何も起きなかった。墓で聞こえたのは、小鳥のさえずりだけである。
あの喧騒を皆が忘れようとした。しかし、誰しもが考えてしまう。なぜ沈黙したのか。何がダメだったのか。そもそもアレは神だったのか?
LINEに通知が鳴った。小林から飯の誘いだった。外食はしたいがやはり金がないようで、学食で会おうということになった。
次々とお盆に食べ物を載せていく。例の巨人について語りながら、時々笑ったりもした。話題は尽きなかった。そして、いつかと同じように横並びに座った。
「しかし忽然とだんまりだもんなあ。困惑しちゃうよ」 遠くを見ながら小林が言った。
「俺らは一神教じゃないからいいけれど、彼らは気の毒だよなあ」
私が言ったことに頷きながら、彼は味噌汁を飲んだ。
最後まで小林はいただきますとはついぞ言わなかった。
田中健の短編集 田中健 @tanakaken
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