ナトリウム・バベル

 ナトリウム・バベル

 

 マスク越しの空気が実に湿っていた。蒸し器のような、そういう感じの空気が口から肺までの気管一杯に詰まっている。

 座ることの出来ない電車に辟易しながら、やっとの思いで降車し構外へ向かう。

 マスクを外してふぅと細くため息を吐いてみた。四月には珍しく一本の白糸が口から伸びた。今度は吸ってみる。肺がまるで気体から個体になったように存在がクリアになった。

 ため息の原因をじっとみると――つまりは金だが――それの残額は今日の昼飯分しかない。

 出勤ラッシュの喧騒はかえって俺の孤独感を強めた。画面を覗きながらため息をついて立ち止まっている俺を誰も舌打ちをすることもなく避けて、その横を通り過ぎていく。

 いよいよ追い詰められていた。選択の余地はないのだ、そう思って先週の金曜日に『塩取り』に応募した。時給はいい、しかし国営なのに、いや国営だからこそ労働条件はろくでもない、そういうよくある仕事である。

 採用通知は十分程度で来た。そのことが志望者の少なさを物語っていた。賃金は先払いだった。三十万、これだけあれば家賃と酒を買うことができる。逆にいえばその程度だ。


仕事場へ歩いていると、信号が赤になった。出費の衝撃もあり、端末を見る気にもならなくて、街頭ビジョンを見ていると、東ミャンマーのチャットとトルコ・リラが暴落し、現地でビジネスをしている関連銘柄に売り注文が殺到しそうだというニュースが自分とは関係のない世界のことだと思った。投資どころか貯金すら夢のまた夢だというのに――

 信号の独特な電子音が自分の意識を思索から引き戻した。少しばかり驚きながら横断することになった。会社へ向かう道中にあるいつも立ち寄る千円均一の自動販売機でしか飲み物を購入できない貧乏臭さと、水筒を持ってくることすら面倒に感じる自分の性格が、我が身を堕としたことをしみじみと感じながらミネラルウォーターを買う。

 塩っ辛い風が吹き付けてくる。唇が切れているところや指のささくれに滲みる。普通の仕事ではないことを感じさせた。

 港に着くと、監督さんが大きな声で「今週の労働時間をまだ送信して頂けてない方が二名いらっしゃいます!小林さんと浅川さん!至急送信してくださるようお願いいたします」自分だった。それよりも懐かしい友人の小林という苗字を聞いて少し期待した。四年は会っていない友人だったからだ。

送ろうとポケットから端末を取り出して入力しようとすると、後ろから懐かしい声がしてきた。「お前もか、奇遇って奴だな」そういいながら、ここの労働者とは思えない綺麗な歯を見せて笑った。

「お前、随分久しいじゃないか、どこで何をしてたんだよ」

「お前と同じようなことをしていたのさ。そうじゃないとこんな所には居ない。そうだろう?」小林は懐かしいような寂しいような顔をしていた。

「まあ、こういう所にいるんだ、もう首はとうの昔から回っていないんだろ」そういって小林はまた笑った。一通り笑った後、端末の画面を俺の方に向けた。「俺もさ」

 

 波止場の方からぞろぞろと作業員たちが降りてきた。皆、せいせいとした表情をしていた。その一団が自分たちの集合場所の前を通る時、「おーい、地獄はどうだった!」と誰かがいった。

「そこら中、塩まみれ!お前らもちゃんとお国のために削ってこいよう!」アハハという笑い声と一緒に返事が帰ってきた。

そんな風に帰還作業員の行進に、声をかけたり、タバコを吸ったりしている間に、輸送船の整備が終わり。ついで荷卸し――まあ大抵はゴミだが――そして我々の生活備品の荷揚げも終了した。

「出港準備が終わりました!波止場へ移動した後、いつも通り船に乗ってください」監督さんの青臭い元気な声がメガホン越しから聞こえてきた。

 大きな船だった。漁船をそのまま巨大化させたような姿を波止場に横たわらせていた。乗って、船の休憩用の広間に皆、思い思いの場所に自分のスペースを確保し終わると、そそくさと携帯の電源を落とした。これがここの規則であった。船内放送からはひっきりなしに「電子攻撃対策として船内での無線回線に接続可能な電子端末の使用は禁止されており・・・・・・」という女性の音声が流れていた。

 着くまでには数時間あったし、やることもないので小林を飯に誘いにいくと、「酔ってとても食欲なんてないよ。それよりも甲板で海を眺める方が乙だと思わないか」というので、二人で甲板に出ることとなった。

 曇っていて、日本海特有の強い北風が冷たかった。「到着するより、これじゃあ嵐に遭う方が早そうだね」と小林に声をかける。小林はじっと遠くのほうをみるのに精一杯で聞いていないようだった。「なにを一生懸命見ているんだか。一体なにが面白いんだろう」と自分が声に出した時、小林が西の方を指差して大きな声で遮るように言った。

「おい!見てみろ!朝鮮海軍だ!」確かに太極旗が海面から少しみえた。「よく見つけられるね。俺は目が悪くてさっぱりだ」感心と苦笑交じりに小林に返答した。

 少し不思議だった小林はそういう社会のことには滅法疎かったからだ。少なくとも大学時代は一遍も投票にも行かなかった男だった。四年の歳月で人は変わるものだなと思った。

少し嫌味気味に「日本海軍は来ないね」というと「俺らの船が通報すれば、すぐ来るよ」とこちらを一瞥することもなく答えた。気が付いていないようだ。

彼がそういった後、すぐに東の地平線から活火山の如き白いスチイムが見えたかと思うと、真っ白く、そして積み木を無理やり合体させたような角の多い船があっという間に輸送船の隣にピタリとついた。日本海軍艦である。

「ほら来てくれたぞ。俺たちの船だ!」嬉しそうに見ていた。「第二電子戦隊所属薩摩型二番艦安芸だ!」

「よくもまあスラスラとでること」思わず苦笑した。

「俺はね、こういう風にお国が俺たちを守ってくれていると思うと頑張ろうって気持ちが湧いてくるんだよ」

「ふーん、そんなもんかい」そういう話はあまり興味がなかったのだ。「俺は金さえありゃあどこでもいいけどなあ」この呟きに返事はなかった。

安芸はもうもうと白いスチイムを煙突から出しながら朝鮮船と暫くの間、並走していた。奇妙な沈黙が、曇天の中を支配していた。事態に変化があったのは十五分後だった。朝鮮船の動きが明らかに遅くなったのだ。十ノットは遅くなっていた。どうやらスクリューの動力を切り替えざる得なくなったらしかった。どんどん艦影は小さくなっていった。輸送船よりも動力が乏しくなってしまったようだった。安芸はそれを追捕することもなく、また東の方へ向かっていった。新しい仕事があるようでもあり、これら一連の流れが日常茶飯事でもあるようだった。

「しかし朝鮮海軍が妨害を成功した試しってあるのかしら」

「あれはね、来るのが大事なんだよ、成否じゃないんだな」参謀殿は得意げに語った。

 参謀殿の考えは正しかった。我々の船が着いたのは夜だった。朝鮮海軍は輸送を失敗させるのではなく到着を遅らせた、こういう意味では妨害は成功していたのだ。

夜の海はどこもかしこも真っ黒だった。

「これじゃ潜水艇は無理ですね」監督は船内唯一の電話でしきりに連絡していた。監督は青い顔から出てくる汗を拭くことばかりに集中しているようでもあった。


翌朝、海上で我々は一夜を過ごした。船内は雑魚寝している男達のせいでひどく歩きにくかった。

周囲の水面は、暗い藍色だったが船が止まったその一帯だけは淡い水色であった。                                   

 監督の指示で、潜水服を着終わった作業員は潜水艇に続々と乗り込んでいった。潜水服はそこかしこにゴム管が付いていた。これから当分便所もキッチンも、そしてベッドすらこの服になる。どうしてかはわからないが、食事は首の後ろに栄養缶を刺して、中身を吸って飲んだ。通りで時給が高いわけだと潜水服というか作業着の説明を聞きながら独り合点した。

潜水艇はサプリメントのような形をしていた。生産性向上のためか、安全性を高めるためか、窓ガラスはなかった。このサプリメント群は大きなベルトコンベヤーに置いてあった。全員がそこに搭乗し終わると、鎖が擦れるようにしながらコンベヤーは動き始めた。

作業員の誰もが慣れている音だった。慣れてしまっていたのだ。誰も話題にしてはいなかった。いや、会話すら誰もしていなかった。この空間では俺だけが初めてだった。汗が目に入って滲みた。拭うことはもうできなかった。

 応募のHPでみた動画によるとこのカプセルはリボルバー状の発射管に詰められた後に射出されるそうだ。

 音だけがこの空間と時間の王様だった。何かをはめ込んだ後に、ボンベからガスが抜けるような音がした。それが幾度か繰り返された。一番音が大きくなった。空間の支配者は振動によってどこかへと消える。次の瞬間、全身にGがかかる。


「ご苦労様です。どこか痛めた場所はありませんか」ビール瓶を開けるような音を立てて蓋を開けた現場監督はそう我々に話しかけた。

「なんでもチョンコが邪魔したらしいですね。全く頭に来る話です。統一してから、ちと目に余る行動が多すぎる。そうは思いませんか」

 四角い眼鏡をかけた真面目そうな顔とさっきの優しい気遣いからは想像できない強い言葉に我々は少し面食らっていた。現場監督はその空気を察してか少しだけ、しまったという表情を見せた。その滑稽さがなんだか場を和ませた。

「じゃあそろそろ現場に移ってもらいますね」本題を思い出したように話し出した。「妨害によって到着予定時間がずれてしまったことによって、潜水も遅くなってしまいました。少なくとも十時間は一切のメンテナンスがなされていない状況です。そのため塩は既に三百頓を超えています・・・・・・」

 量子コンピュータ、グーフル・テットは丸一日の間、人の手でもって塩を除去するなどのメンテナンスが無ければ、その強力な演算能力から発生する熱によって冷却水たる海水から塩を大量に作り出す。塩は、伝熱板を覆ってしまうことで発散を著しく妨げる。最後は、日本の電子通貨制度をめちゃくちゃにして崩壊するという説明を現場監督が少し高い台から演説気味に唾を飛ばされながら聞いた。〆は日本の為に頑張れという旨であった。

 退屈だった、誰のための説明なのかわからない内容。うんざりしたが、一応必要性は感じた。ベルトコンベヤーでネジを締めるよりは、よっぽど遣り甲斐があると思った。

 

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