その3

小出川上流  香川駅南西約500メートル

星川合衆国海軍 VF-111(第111戦闘飛行隊)“サンダウナー205、208”


今日も無事に発艦できた。緒方少尉は、そう思いながら、「サンダウナー205、グット・ショット」とコールして、空母<カール・ビンソン>を後にした。

緒方少尉が乗るF-14D“トムキャット”などの艦載機が空母から発艦する際は、カタパルトと呼ばれる発艦用射出装置を使って、まさに空母から投げ出される。

カタパルトがあるフライト・デッキは水面から8センチメートルの高さでしかない。このため、「ダイダラ」にとっては平穏な水面でも波の波長によっては艦のピッチングが激しくなり、フライト・デッキにまで水しぶきがかかってくる。

こんな時の発艦ではエンジンが多量の水を吸い込んで止まる可能性がある。また、艦首にある1、2番カタパルトから発艦する場合、艦首が波の底に向かって落ちている瞬間に発艦すると水面に激突してしまう。

最悪なのは発艦する唯一の手段であるカタパルト射出が他人任せだということである。自分は準備を完了させてただ射出を待つだけ。射出のタイミングは射出の責任者であるカタパルト士官が握っている。カタパルト士官が水面に激突するタイミングで射出させるはずはないし信頼もしているが、やはり危険な瞬間を他人に任せるのは気持ちが落ち着かない。着艦の難しさは広く知れ渡っているが、発艦も極度の緊張を強いられるのである。


「サンダウナー208、グット・ショット」ウイングマン関口魁人のコールを聞いて緒方少尉は後ろを振り返り関口少尉の操るF-14Dを探した。

2機のF-14Dは空母の西側上空で待機していたVS-29(第29対潜飛行隊)のS-3B“バイキング”艦上対潜哨戒機から空中給油で燃料を受け取った。燃料を満タンにした“サンダウナー205”と“サンダウナー208”は、編隊を組んで機首を西に向けた。


「まだ悩んでるのか?」後席のRIO(レーダー迎撃士官)石川少尉は、インターコムを通じて前席の緒方少尉に話しかけた。

「わからねぇんだよ! オレは……何をやりたいのか」高校3年生の緒方少尉は怒ったように話した。

緒方少尉は高校3年の2学期だというのに、いまだに自分の将来を決められないでいた。

「大学を卒業しないと大尉にもなれないんだぜ!」同級生の石川少尉が言う。

「だからお前はダイダラの大学に行くのかよ?」

「まあな。大学を出て本物の飛行士官になって、ダイダラとスクナビの世界を行ったり来たりするんだ。めざせ加藤中佐といったところさ」

「オレは、このまま飛行士官を続けられるかわからないんだ」

「そりゃあ海軍で飛行機を飛ばしてれば危険は多いよ。怖くなる気持ちもわかる。でもな……」

「でも……なんだよ! お前は怖くないのかよ」

「そりゃあ怖いさ。でも俺が操縦しているわけじゃあないしな。お前の腕を信用してるよ。必ず俺をボートに帰してくれるってな!(星川海軍の艦載機乗りは自分の空母のことをボートと呼んでいる)」

「あぁ!」

「気のない返事するなよ……ところで、もうすぐ相模川だぜ、仕事にかかろう!」

「……そうだな、相模川を過ぎたら高度を下げる。でも、急に偵察地点が変わって、そこに何があるんだ? 加藤のおやじは、対空ミサイル以外に何かありそうな顔してたぞ」

「何があるかわからねぇけど、俺たちの脅威になるミサイルのことは教えてくれたぜ。何があるかは写真を撮ってのお楽しみだ」

「お前は気楽でいいな……関口はしっかり後ろにいるか?」

石川少尉は後ろを振り返り関口少尉のF-14Dが編隊飛行の2番機位置にいることを確認しながら答えた。「関口なら、俺たちのお守りをやってるよ……コースの右にずれている。修正ヘディング2-5-8」

「ガチャ。ヘディング2-5-8」

2機のF-14Dは機首を少し左に修正しながら相模川を目指した。

今回の任務では、2機のF-14Dのうち緒方少尉の乗る”サンダウナー205”がTARPS(F-14Dの胴体下に搭載した偵察ポッド)を搭載して偵察を行い、関口少尉の”サンダウナー208”が護衛することになっている。

今のところ2機のF-14Dはタイト・フォーメーション(緊密編隊)を維持しているが、偵察飛行に入ると、関口少尉は緒方少尉の後方上空に移動して護衛する。こうすれば、関口少尉は十分な視界と自由な空間を確保できる。一方の緒方少尉は高い位置から関口少尉が見張ってくれるので偵察に専念できる。

この隊形は、鈴川と小田原厚木道路が交差する地点からの予定である。あと20分。

相模川上空に達したところで2機は機首を下げ、急速に高度を下げた。小さな点だった家の屋根がぐんぐん迫ってくる。家の屋根がキャノピーいっぱいに見えるほど降下したところで、緒方少尉は機首を上げ、家の屋根を見上げるほどの高度で水平飛行に移った。

2機は右に左に建物や電線をかわしながら飛行を続ける。まるでレールの無いジェットコースターに乗っているようだ。このように建物に隠れて飛行すれば敵のレーダーに探知される確率はぐんと減る。

「スクナビ」では、このような飛行をBSH飛行(信号機よりも低い高度での飛行)と呼ぶが、この高度での飛行は危険も多い。建物や看板、電線に衝突することは言うに及ばず、鳥や虫とも衝突する可能性が増える。

コガネムシのように硬い殻に覆われた虫と衝突すれば助からないが、蚊のように軟らかい虫との衝突も危険である。蚊がエンジンに吸い込まれてエンジンが壊れてしまうからである。虫の動きは予測しにくいため、虫との衝突は珍しいことでなく、飛行機乗りの間では「バグ・ストライク」といって恐れられている。

「バグ・ストライク」などの危険が多く、「ダイダラ」からの騒音苦情が多いこのような飛行はめったにできない。だが、「スクナビ」の飛行機乗りは、例外なくBSH飛行が好きである。

「いけいけー! 左だー! かかってこいやー!」後席から石川少尉が叫ぶ。

「うるせーよ! 気が散るだろが!」そう怒鳴る緒方少尉に怒った様子はない。二人とも例にもれずBSH飛行が好きだからである。

緒方少尉は開放感に浸っていた。「ダイダラ」になって歩いていればただの町並みでも、「スクナビ」となって低空を飛んでいると、片側一車線の道路がとてつもなく広く見える。そして、道路の上の空間がとてつもなく大きく広がって見える。道路の両側にある建物が巨大な崖に見え、階段の一段一段が見上げるように高い。緒方少尉は、この時に感じる開放感が好きであった。

逆に「ダイダラ」に戻った時は強い息苦しさを感じていた。この息苦しさは見た目だけの問題ではなく、「ダイダラ」社会の間に漂う閉塞感も関係している。

成熟した「ダイダラ」社会ではチャレンジよりも安定が優先される。「ダイダラ」の人々は、それぞれのしがらみによって何も変えられない。「今の生活が維持できればいいや!」といった雰囲気が漂っている。

緒方少尉は、このような閉塞感を感じると狭い部屋に閉じ込められたような気分となり、思わず叫びたい衝動にかられる。

「スクナビ」社会は戦火が絶えることがなく危険の多い世界であるが、ほとんどの「スクナビ」人はチャレンジ精神が旺盛でバイタリティにあふれている。

開放的な「スクナビ」と閉塞的な「ダイダラ」を行き来する緒方少尉が、自分の将来を決められない原因がここにある。

どっちで生きるんだよ! 緒方少尉はいつもそこで考えが止まってしてしまう。だからといって両方を行き来する生活ができるほど器用でないとこともわかっている。それは「ダイダラ」の高校に通いながら「スクナビ」でF-14Dを飛ばしている今の生活が苦痛になっていることからもわかる。

智美が「スクナビ」で生活してもいいと言ってくれれば「スクナビ」で生きる踏ん切りがつくんだけどな……

「次の交差点を左!」石川少尉の言葉に緒方少尉の考えは中断された。

「はしゃいでるわりにはちゃんと仕事してるじゃねぇか!」緒方少尉はからかうように言った。

「いつも飛行隊長が言ってるだろ! プロに徹しろって」石川少尉は気にせず答える。

「だいぶ加藤のおやじに洗脳されたな」

「お前だって、飛行隊長が話してる時は真剣に聞いてるぞ! 先公の話なんか聞かないくせに!」

「あぁ、俺はまだ死にたくないからな。おやじの話にはヒントがたくさんある」

「了解! じゃあ今日も生きてボートに戻ろう」

「オーケー、プロらしく任務をこなそう」二人はただの高校生ではなく、プロの戦士でもあった。

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