終わらないよ

 気付いたら部室の外に出ていた。9月半ばの落ちかけた夕日が力を振り絞るように部室棟を橙色に照らしている。

 日が落ちるのが早くなったな——ぼんやりとそんな感想が頭に浮かんで、鞍馬あんばはなんとなく今は何時頃だろうかとどうでもいいことが気になった。

「だ、大丈夫かい? ねえ、鞍馬君? 俺の声が聞こえないのかい?」

 と、誰かに体を揺らされて鞍馬はふと我に返った。ここまで自分を引っ張ってきた川俣かわまたが両手で肩を掴んでこちらの顔を覗き込んでいる。

 その泣き出す一歩手前の思い詰めた表情が鞍馬の顔色の酷さを物語っていた。

 俄かに戻ってきた感覚に、鞍馬は顔中にぐっしょりと冷たい汗を搔いている事に気付く。それをゆっくりと持ち上げた右手で拭って、

「ん、ああ」

 鞍馬が反応を見せたことで安堵の表情を浮かべる川俣の背後、少し離れて部長も心配そうな顔をこちらに向けている。

「よかった。なんともないわよね?」

 その確認はどこか鞍馬の身を案じているというより、仮にも部長としての責任を追及される事への怖れを感じさせた。

「川俣君が咄嗟に電気を付けにいってくれて。本当に何事もなくてよかった」

 その印象を固めるように無理やりな笑みを浮かべて部長は続ける。

「ね、こうして鞍馬君も無事だったんだし、このことは私達だけの秘密にしておかない? だって、こんなの先生に報告のしようがないでしょう。それに——」

 と、矢継ぎ早に捲し立てる部長を遮るものがいた。

「あの人、帰ってくれたんやろか」

 鯖戸真歩さばとまほだった。会話の輪から外れた場所でぽつりと、今の発言を誰に向けたでもなく両手で包んだヤモリに目を落としている。

「どういうこと?」

 不穏な事を言い出す真歩に部長が眉を潜める。

『あのな、テメェらは『スクエア』だったか? 降霊術の真似事をしてまんまと亡霊の類を呼び出しちまったわけだろ? こういうの、放っといて勝手に帰ってくれるもんなのかって話よ』

 それに答えたのは真歩ではなく彼女が手にしたヤモリのミヤモリだった。

「だとしたら、一番の原因はあなた達にあるんじゃないかしら?」

 その物言いにやや棘のある口調で部長が返す。『あ?』と睨み上げるように顔を向けてくるミヤモリに部長は続けて、

「だって、自分がキーホルダーを渡す相手がいない事くらいわかっていたでしょう? なにかおかしいと思わなかったの?」

『んなもん、俺だって鞍馬の野郎が悪戯心で戻ってきたと思ったんだよ。それをわざわざ指摘するほど俺は野暮なヤモリじゃねぇんだ』

 おそらく建設的な方向には向かわない議論が始まりそうだったので、鞍馬はそれを避ける意味も込めて疑問を口にした。

「つまり、鯖戸さんには相手が俺に見えてたってこと?」

 直接、『5人目』と接触したのは自分と真歩だ。その真歩の目にどう映っていたのか鞍馬は気になっていた。

「さあ? よおわからんけど、そういうルールやったから」

 誰かも確かめずにキーホルダーを渡したらしい。予想外の答えに肩透かしを喰らう鞍馬。部長はハアっと聞こえよがしな溜息をついて、

「あなたってそういう所あるわよね。少しは考えて行動してよ。その時点でやめていればこんな事にならなかったかも知れないじゃない」

『おいおい、責任転嫁も大概たいがいにしろや。テメェらがこのお遊びを始めた時点で『5人目』とやらは出てきちまってんのよ。こんな事になるたぁ思わなかったってなら、テメェだって目くそ鼻くそじゃねぇか』

 またしても口論を始める部長とミヤモリ。鞍馬はお手上げといったように天を仰いだ。もう好きにしてくれといった心境だ。

「まあまあ、こんな時に誰が悪いかなんて言い合っても仕方ないさ。ミヤモリさんはこの件に関してこのままじゃ終わらないと思っているようだけど」

 適当にとりなして、川俣。ミヤモリはチロリと舌で鼻先を舐め、

『そうさな。そりゃ鞍馬、テメェが一番よくわかってんじゃねぇのか? 間近でやっこさんの顔を拝んだんだろ?』

 無機質な瞳で鞍馬を見やる。

「見た……はずだけど。悪い、よく憶えてない。ただ、笑ってただけとしか」

 歯切れ悪く答える鞍馬。ミヤモリはキキッと笑って、

『そら見ろ。奴さんはテメェらを見逃しちゃくれないとさ』

 何を暢気な。そう思ったのは鞍馬だけではなかった。

「いい加減にしてくれない? 鯖戸さん、こんな時にあまりにも悪趣味よ。他人事みたいにみんなの不安を煽らないでくれる?」

 部長の声音からはいよいよ緩衝材が全て取り除かれた。癖のように笑みを浮かべていた口元を歪ませて不愉快さを滲ませた刺々しい口調を真歩に向ける。

『他人事……ね。そりゃそうだ、コイツにゃ俺が付いてるからな。テメェらは精々、火遊びのツケに怯えて過ごしな。行くぜマホ子、部長殿は俺らに用はねぇんだとよ』

 意に介さず一人芝居を続ける真歩も相当なものだと思う。そやね、とミヤモリに同意して、

「ほな、また明日」

 ペコっと頭を下げた。こんな状況にも関わらず鞍馬はそれを不覚にも可愛いと思ってしまった。前屈みになって胸が強調されたからでは決してない。

「あ、あのぉ……部長。彼女を一人で帰らせていいのかい?」

 去っていく真歩の背中をなんとも言えない顔で見ていた川俣が慎重にお伺いを立てる。身長差から背中を丸めてなお上目遣いに見下ろす形になるのがどこか滑稽だ。

「仕方ないでしょう? あの子がいると話にならないんだもの」

 この図体でどうしてこうも自信がないのだろうと鞍馬が思っていると、部長が川俣の危惧をあっさりと切って捨てた。

「つっても、俺らだけで何の話になるでもないだろ。だったら、あの子を送ってやった方がいいんじゃないか?」

 悲しげに目を伏せて黙ってしまう川俣を見かねた鞍馬が助け舟を出す。

「そうね——」

 部長は考えるように顎に手を当てて足元を睨み付けると、

「なら川俣君、お願いできるかしら?」

 顔を上げた部長に頼まれた川俣はホッとしたように人の良い表情を浮かべた。純粋に真歩の身を案じていないと出来ない顔だ。

 素直にそう感じた鞍馬はこの展開にどこかがっかりしている自分の卑しさを嚙み潰すように苦笑いを浮かべた。


 見失わない内にと川俣が慌ただしく別れを告げて真歩を追っていき、残された鞍馬は部長と連れ立って下校することになった。

「ごめんなさいね。鯖戸さんと帰りたかったのに邪魔しちゃって」

 自分に合わせて歩調を緩めている部長がぽつりと発した言葉が鞍馬にはよく刺さる。動揺を隠しつつ気の利いた言い訳を探していると、

「もっとストイックな人だと思ってた。鞍馬君って見掛けによらずケダモノよね。手元のヤモリを見るふりしてジロジロ見てるの丸わかりだったわよ」

 棘どころか侮蔑を含んだ追撃に鞍馬は思わず息を飲んで、

「え? マジで?」

「マジよ。よっぽど注意しようかと思ったわ」

 そんなにか? 部長の指摘にすっかり狼狽えた頭で我が身を振り返った鞍馬には悲しい事に思い当たる節しかなかった。

「ま、いいんじゃない? 本人は気付いてないみたいだし。それに——」

 返す言葉もなく苦渋の表情で己の愚行を責めるしかない鞍馬に、それはそれでどうかと思う感想を述べた部長は続けて、

「どうせ鞍馬君、入部する気もないんだしどう思われたって関係ないでしょう?」

 先ほどからの砕けた態度はそれが理由だったらしい。無関係となる相手に優等生面を見せる気はないようだ。

 その方が楽でいいけど、と鞍馬は苦笑して、

「部長がそれを決めつけるのかよ」

「安心して。私達だけで仲良くやろうってつもりはないのよ。わかるでしょ? あのメンバーでまともに部活動なんて出来るわけないじゃない。鯖戸さんはいつもああだし、川俣君も普段は男子一人だからって変に意識してろくに話さないのよ。正直言って、毎日お通夜にでも通ってる気分だわ」

 ぶっちゃけた部長の本音には鞍馬も大いに共感した。

「じゃあ、なんで部長なんかやってるんだよ?」

 その気安さでついからかうような口調で聞く鞍馬に、部長がふと足を止めた。

「誰が好き好んで——!」

 下を向いて溜まりに溜まった憤懣を吐き出すように地面に向かって叫ぶ。ぎょっとして思わず周りを気にする鞍馬に、部長は「ごめんなさい」と大きく肩を上下させて、

「でも、私にだって色々あるのよ」

「あー、部長も久遠にしつこくやられた口か?」

 溜息交じりに吐き捨てたその胸中を察した鞍馬に部長は憮然とした顔で、

「そ、余計なお世話だってのよ。この多様性の時代に友達いないくらいがなんだっての? 担任でもないのに一度親御さんと話がしたいとか、本気であの人頭おかしいわよ。仮にも教師にそんな事で家にこられたら親を悲しませちゃうじゃない」

 暗にそれが嫌なら入部しろと迫られたらしい。

「まったくだ」

 掛ける言葉が見当たらないが、久遠の悪質な勧誘の執拗さが骨身に沁みている鞍馬には部長への同情しかない。

「なによ、鞍馬君はたくさんいるでしょう?」

 どこか摺れたようなやさぐれ顔で言ってくる部長に鞍馬は肩を竦めて、

「ま、殆どこれ繋がりだけどな」

 引き摺っていた足を右手で指さして笑った。それを見た部長の顔が一瞬にして緊張で固まる。

「あ、ごめんなさい。ほんと私って馬鹿で無神経」

「いいって。気ぃ遣われる方がかえってしんどい」

 俯いて自分の迂闊な発言を重く受け止める部長に鞍馬は笑顔のまま返して、

「正直言ってさ。どこでも良かったんだ」

 唐突な話題の転換についていけず「え?」と顔を上げる部長。

「空いた時間を埋められるならどこでも。流石にお前はここがお似合いだって言われたみたいで腹立ったけど。一人でも真剣にやってんならともかく」

 仮にも部の長に失礼な事を言う鞍馬に部長は思わず小さく噴き出した。

「だよね? 私も流石にそれはないって思った! 説明してて鞍馬君が怒り出さないか冷や冷やしてたのよ。だって——」

 そこで部長は言葉を選ぶように少し間を空けて、

「憧れてたから。あ、鞍馬君にってわけじゃないわよ。私みたいな何もない凡人からしたら部活で活躍してる人たちって雲の上の存在なの」

「別にそんないいもんでもないぜ。練習はキツイし顧問は五月蠅いし先輩はムカつくし」

 そう言いながら鞍馬の顔には満更でもないと書いてある。自分が失くした、他人が羨むほどでもないものの良さを嫌というほど知っているのだ。

「傍から見てたんだからそんなの分かんないわよ。だから、鞍馬君が見学に来るって聞いてどうしようって思った。こんなの馬鹿にしてるようにしか見えないもの。それで、少しでも失礼がないようにって……ごめんなさい。その結果があれってわけ」

 言っている内に部長の声はどんどん小さくなって俯いてしまう。

「あ、いや、部長は悪くないだろ」

 その様子に鞍馬は慌てて擁護する。悪いのは今日という日を平和裡に終わらせようとした部長の努力を踏み躙った久遠とかいうろくでなしである。

「ありがとう。そう言ってくれると、ほんと助かる」

 そう言って、部長は肩の荷が下りたように溜息をついて、

「だから、今日のことは綺麗に忘れて」

 チカッと、目の端に光るものが映らなければ鞍馬は部長の言う事に二つ返事で従っていたに違いない。

(終わらないよ……)

 チカッチカッと、視界の隅で灯りが点滅する。

(君達の中から——まで終わらないよ……)

 チカッチカッと、その声はまるで自分達を逃がさないとでも言うように。

(途中でやめたら……)

 チカッチカッと、光って消えた。

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