本当に大切なもの②
長きに渡って人の手が入っていない雑居ビルの一室。割られた窓ガラスの破片が床に散らばっており、壁紙の剥がれた壁はスプレーの落書きだらけ。電気ガス水道のライフラインは当たり前のように通っていない。
後ろ暗い雰囲気は真っ当な人間を寄せつけない。それ故に真っ当ではない人間が集う場所。荒くれ者の
あの日からアルフェリカはずっとここに身を隠していた。膝を抱いて言葉通り自分の殻に閉じこもる。
打ち身、捻挫、打撲、骨折、内出血。完治には至らずともウォルシィラにやられた傷は癒えた。戦闘行動は可能だろう。
〝断罪の女神〟の持つ治癒能力。罪人を裁くことに特化した存在であるこの神は、たとえ深手を追ってもその使命を完遂させる。そのために備えられた能力。
死ななかったのはこの力のおかげだった。
あるいはこの力のせいで死ねなかった。
(あと一日もすれば傷は完治する。そうなったらこっちから打って出るよ。今度は遅れを取らない。確実にウォルシィラの首を落とす)
頭に響く声は憎悪に染まり切っている。今まで見せていた無邪気さは
それほどまでにエクセキュアはあの女神を憎んでいる。
(やっと手の届くとこまで来た。アルフェリカには悪いけど、ウォルシィラを殺すまで付き合ってもらうからね)
「……本当に、悪いと思ってるの?」
この暗黒街に身を隠してから二度も狩人の襲撃を受けた。その狩人が口にした言葉から察するに『ティル・ナ・ノーグ』が〝断罪の女神〟の討伐を発令し、懸賞金までかけているらしい。
つまりこの都市の人間が自分を殺しにくるということだ。また周囲の全てが敵に回ったということだ。
気がつけば、金に目が眩んだらしい狩人が首と胴を泣き別れにして絶命していた。
それはエクセキュアがやったことだ。しかし他人はアルフェリカが殺したと思うだろう。
絶望しないわけがなかった。
輝は言っていた。『アルカディア』では人間と神が手を取り合っている場所があると。輝の言った通り、実際に自分を擁護してくれる者も確かにいた。
だから思った。ここでなら普通に暮らしていけるのではないかと。人並みとはいかないまでも、穏やかでささやかな幸せを手に入れるのではないかと。
希望を持った。夢見た未来に心が踊った。手を伸ばせば届く場所にようやく辿り着いたと思った。
けれど届かなかった。――否。
掴もうとしたそれを神が砕いた。
(……思ってるよ。アルフェリカに幸せになって欲しいと思ってるのも本心だよ)
「どうやって……それを信じろっていうのよ」
(………………)
幸せどころか希望さえも打ち砕いて、自分を不幸のどん底に引き
少しでも信じようと思った自分が馬鹿だった。もう誰も信じるものか。
部屋の外から複数の足音が聞こえてくる。段々と近づいてきていることからこの部屋に向かっていることがわかった。
また狩人だろうか。
アルフェリカは動かない。何をせずとも、どうせエクセキュアの手にかかる。
ドアの曇りガラス越しに人影が見えた。錆びついた音を立ててドアが開かれると姿を見せたのは六人の少年。ピアスや刺青、シルバーアクセサリー。パッと
「あ、誰? あんた?」
部屋に入ってきた少年たちは見知らぬ存在に気づき、話をやめて怪訝な顔つきになった。
しかしそれも一時のこと。アルフェリカの美貌を見て下卑た笑いを浮かべた。
「なになに? こんなところでなにしてんの? もしかして俺たちと遊びたくて待ってたとか?」
金髪の少年がアルフェリカに近づくと他の五人も逃げ道を塞ぐように取り囲んだ。ご丁寧にドアの施錠までしている。見たところ近づいてくる金髪の少年がリーダー格らしい。
少年たちの視線は大きく開いた胸元やスリットから覗く足などに注がれていた。身体を舐め回すような無遠慮な視線に鳥肌が立つ。劣情の灯った瞳が何を目論んでいるのか想像するのはあまりに容易い。
気持ちが悪い。その下卑た笑顔も、彼らが纏う黒い靄も。
さすがに大人しく餌食になろうなんて思わない。少し痛い目に合わせれば逃げていくだろう。
そう思って立ち上がろうとした矢先、足にスタンガンが押し当てられた。
「ぁぐっ……!?」
全身に電流が駆け抜けて視界が一瞬暗転し、膝から崩れ落ちる。
それを合図に少年たちは一斉にアルフェリカに群がった。
「おい、暴れられねぇようにしっかり押さえつけとけよ」
指示に従って取り巻きの少年たちが両の手足と頭を五人がかりで押さえつけ、金髪の少年がアルフェリカに馬乗りになった。
電気ショックの混乱から覚めたアルフェリカは少年を
「そんな顔すんなよ。こんなところに一人でいたんだ。こうなんのを期待してたんだろ? 俺たちが楽しませてやるからよ、一緒に楽しもうぜ」
少年たちはすでに獣欲に支配されている。自分たちが圧倒的な優位を取ったからか、それとも多人数であるが故の集団心理からくるモノか、卑しい笑い声が止まらない。
「しっかしこんな上玉にありつけるなんて今日はついてんな。見ろよこのデカい胸。たまんねーよな」
少年たちが纏う黒い
自分を見下ろす少年たちの目には情欲以外に何もない。こちらの人格を認識せず、ただ欲望の
――こっちに来るな、化け物!
――この悪魔め!
――今まで騙してたのね!
――どうしてこんな害獣が生きてるんだ!?
――さっさと死んでくれよ!
転生体というだけで排斥されてきた。近づいてくるのは身体や神の力が目的のやつばかり。友情や信頼を築いても、転生体だと知られてしまえば掌を返される。辛い思いも、苦しい思いも、寂しい思いも、何度もした。何度も繰り返した。
この世界は敵かいずれ敵になるものばかり。
アルフェリカ=オリュンシアを見てくれる人はどこにもいない。
そう――初めからいなかったのだ。
「……いや」
自分がなくなることが嫌だ。
幸せになれないなんて嫌だ。
ずっと孤独でいるなんて嫌だ。
「そんな怖がんなって。暴れなきゃ優しく可愛がってやっからよ」
アルフェリカが漏らした声を哀願と勘違いしたのか、男は嗜虐心を昂らせる。
結局どこに行っても似たような結末しか用意されていない。
どんなに嫌がっても逃げられない。
「じゃあ、もう、どうにでもなればいい」
この瞬間、アルフェリカは人であることを諦めた。
「お? それって合意? いいねいいね、それじゃあ楽しも――ぉ?」
気持ち悪く嗤う顔が、ゴトンと音を立てて床に転がった。首を失った身体がアルフェリカの上にのしかかり、傷口から噴き出した赤いものが彼女の顔を汚す。
生暖かい。人肌の温度。あまりの気持ち良さに身体がぶるっと震えた。
右手には返り血を浴びて
事態を飲み込めず、少年たちは首をなくした身体が横たわる様を唖然と眺めていた。
神名の刻印が全身を侵す。手足を押さえつける拘束を振り解き、少年たちの中心で駒のように一回転。五つの首が床に落ち、血のスコールが降り注いだ。
身体が紅く染まっていくのがこの上なく気持ちいい。
「あはっ、あははははははははははははははははははは――――――――――――っ!」
狂った
簡単なことだった。単純なことだった。『アルカディア』が敵に回ったのではない。初めから敵だったのだ。転生体にとって人類すべてが敵なのだ。
自分は人間だと思っていた。だから苦しかった。自分は人間とは別の生き物だと、それを理解していなかったから辛くて辛くて堪らなかった。
人間にとって転生体は敵。すなわち転生体にとっても人間は敵だ。
「いいわ、エクセキュア! ウォルシィラを殺させてあげる! でもそれだけじゃ終わらない! 次はこの都市の人間を! その次は世界中の人間を! 殺して殺して殺し尽くす! そして転生体だけの理想郷を創り上げる! だからウォルシィラを殺して終わりじゃない! 最後まで付き合ってもらうわよ、エクセキュア!」
狂気に染まった笑い声が反響する。期待も願いもすべて吐き出してしまうかのように。
人間の世界に転生体の居場所を求めたところで、そんなものはどこにも存在しない。
それなら自分で創ればいい。それを脅かす邪魔者は全て排除すればいい。
転生体が今ままでそうされてきたように。人間が今ままでそうしてきたように。
(アルフェリカ……)
誰に付けられたかも覚えていない名前を、痛みを堪えるような声が呼ぶ。
「なによその声? あたしたちは罪を裁く者! この世界は罪人しかいない! 転生体から幸せも願いも奪うやつらばっかり! その罪人に裁きを下すのは、あたしたちに与えられた権利であり義務よ! エクセキュアも奪われた! だからウォルシィラを殺すんでしょう!? だからあたしは人間を殺す! あたしのためだけじゃない! 生まれながらに原罪を背負う人間なんて、この世界に在っちゃいけないんだから!」
(……うん、わかった。それがアルフェリカの選んだ道なら、私はどこまでも付き合うよ)
なにをふざけたことを、とアルフェリカは思った。
お前たち神が此処まで追い詰めたくせに。
「全部、全部殺す! あたしを苦しめる人間を! あたしから何もかもを奪っていく、罪人のすべてをこの世界から排除してやる!」
(それがあなたの望みなら、せめて叶える力となるよ)
まるでそれを贖罪とするかのような涙に震えた諦観の声。
「さあ、すべての
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