自由への渇望⑤


 自分が普通ではないと気づいたのは六歳の時だった。


 それは『アルカディア』に辿り着くずっと前の話。小さな町に住んでいて同じ世代の子供たちと山の中で遊んでいた時のこと。


 木の上に果物の実が生っていた。とても美味しそうで、どうしても欲しかった。けれどその果物は自分の身長よりもはるかに高いところにあって、とても届く距離ではなかった。


 木を揺らしたら落ちるかな。そう思って自分よりもずっと太い木のみきを思いっきり蹴ってみた。目論見もくろみ通り果物はゆっくりと地面に落ちた。


 その大木たいぼくごと。


 試してみたらそうなった。夕姫にしてみればそれだけのことだった。


 しかし一緒にいた子供たちにとってそうではなかった。たとえ十年も生きていない子供であろうと、蹴っただけで木を倒せないことは今までの経験から理解している。


 純粋な子供の目には偉業いぎょうにしか映らなかった。ことも無くそれを成した夕姫は一躍いちやくヒーローとなった。


 やはりそういう力強さに憧れるのは男の子だ。夕姫と同じ事が出来るようになるために特訓だと称して山に通い詰める子供が増えた。毎日毎日、自分の身体よりも何倍も大きい木を蹴って遊んでいた。時には虫が頭の上にたくさん落ちてきて、涙目になりながらみんなで逃げ出したこともあったけど、その時間は楽しかった。


 そんな遊びが流行った経緯が大人の耳に届くまで、そう時間はかからなかった。


 ある日、誰かが家を訪ねてきた。両親と言い争いが始まった。何を話していたのかはわからなかったけど、怖いと感じたのを覚えている。


 日を追うごとにそういう光景が増えていった。その度に夕姫は別室にいるようにうながされて、次第にはそれが毎日続くようになった。


 言いようのない不安がふくれ上がって、父と母にたずねずにはいられなかった。


 けれど決まって何でもないからと口にする。


 それがさらに不安を増長させたが、二人の疲れ切った微笑みを見てそれ以上を訊くことはできなかった。


 一緒に遊んでくれる友達が少しずつ減っていった。それは寂しかったけど、まだ一緒に遊んでくれる子もいたから気を紛らわせることができていた。


 またある日、男の子の一人にこんなことを言われた。



「お前、転生体だったりする?」



 それが何なのか、この時はまだわかっていなかった。他の子供たちもそれは同じだったらしい。



「転生体ってなぁに?」


「俺もよくわからないんだけどさ、なんかスッゲー力を持つ人のことを言うらしいぜ。ほら、夕姫って大人なんて目じゃないくらい力持ちじゃん。もしかしたらそうなんじゃないかって思ってさ。転生体って生まれた時から身体のどこかにあざがあるらしいんだよ。夕姫にもあるのかなーって」


「もしかしてこれ?」



 言われて心当たりがあった夕姫は、服をまくってお腹を見せた。右の脇腹にあざのようなものがあり、それを見た子供たちが興奮する。



「そうだよ、きっとそれだよっ。スッゲーな! 夕姫って転生体だったんだな! どうりで力があるわけだ。いいなー、俺にもそんな力があればな」



 心底羨うらやましそうに夕姫の神名を見つめる男の子たち。異性に肌を見つめられ、子供なりに羞恥心を刺激された夕姫は顔を赤くしてあざを隠してしまう。



「あっ、何で隠すんだよ!」


「だってそんなに見られたら恥ずかしいんだもん。もういーでしょ。それより今日は何して遊ぶ?」



 あざも力も生まれてからずっとあった当たり前のものだ。確かにみんなと違うが、夕姫にとってはそれだけのことだった。だからあざを見せたことなんて気にも留めていなかった。


 その夜、いつものように誰かが家を訪ねてきた。しかしそれはどこかいつもと雰囲気が違った。ピリピリと張り詰めた空気が家の中にいても伝わってくる。


 いつものように部屋にいるように言われる。決まりごとのように言い争いが始まり、しばらくするとそれは怒号に変わった。大勢の人がそれぞれ思うがままに叫ぶので誰が何を言っているのかわからない。


 ただ、そこに含まれている感情が恐ろしいものだということだけは理解できた。それが我が家に向けられていることも、両親がたった二人でそれに立ち向かっていることも。


 助けなきゃ。


 そう思った夕姫は言いつけを破って部屋を出た。両親のいるところに行った時、集まっている人たちの恐ろしい剣幕けんまくに足が竦んだ。


 みんな手に何かを持っている。くわ、草刈り鎌、スコップ、包丁、どこの家にも当たり前のようにあった日用品。



「いたぞ、転生体だ!」



 先頭に立っていた初老の男が夕姫に気づく。この町の町長さんだ。挨拶をすればいつも穏やかに手を振ってくれる人が、目を血走らせてこちらを見ていた。



「夕姫っ、出てきてはダメよ!」



 母親が必死に駆け寄って夕姫を抱きしめた。母は震えていた。どうして震えているのかまだ夕姫にはわからなかった。



「その転生体を殺せ!」


「待て! 私の娘に何をするつもりだ!?」


「うるさい! どけ!」



 家に踏み入られるのを防ごうとして掴みかかった父を町長は手に持っていた鍬で殴り飛ばした。それを合図に集まっていた他の人たちが家の中に雪崩れ込んでくる。


 殴られた父は立ち上がる前に数人がかりで押さえつけられた。頭から血が出ているのに誰も手当てをしようとしない。


 見てみれば見知った顔ばかりだった。魚屋さんのお兄さん、近所のおじさん、友達のお父さん、それ以外にもたくさん。みんながみんな目を血走らせていた。まるで化け物を見るかのように夕姫を見ている。


 抱きしめられる手に力がこもる。



「やめてください! この子は何も悪くないです!」


「うるさい裏切り者めが! 転生体をかくまうことがどういうことかわからんとは言わせんぞ!」



 夕姫を守ろうとする母を町長は力任せに引き剥がした。それでも我が子を守ろうと必死に食らいつく。



「しつこい!」



 怒声とともに突き飛ばされ、父と同じように母も押さえつけられてしまった。


 町長は夕姫の口元を鷲掴わしづかみにして押し倒すと、懐から白く光るものを取り出した。


 刃物。母がよく台所で使っているものだ。料理に使うものだと思っていたそれが、どうして自分に向けられているのか。



「夕姫! 逃げて夕姫!」



 拘束を振り解くこともできずに必死に叫ぶ。あまりのことに理解が追いつかず、遠慮なく叩きつけられる敵意が怖くて泣き叫びそうになった。


 そうならなかったのは両親がいたからだ。酷いことをされている二人を助けなければと、幼い心がそう叫んでいた。


 自分はすごい力を持っている。それは大人なんて目じゃない力だ。だから助けないと。パパとママを助けられるのは自分だけなんだから。


 町長を突き飛ばして、二人を押さえつける人たちも突き飛ばして、三人でここから逃げるんだ。



「パパとママを……」



 目にいっぱいの涙をたたえながら、町長を睨みつけた。



「はなせええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――っ!」



 力一杯、全力で、町長の胸を両手の掌で叩く。


 パァンと風船でも割ったような音が鳴った。



「……え?」



 突き出した両手が生温かい。ドボドボと同じ温度の液体が夕姫の身体に降りかかる。


 目の前が真っ赤に染まっていた。突き出した手は町長の背中から飛び出している。ぽっかりと空いた胸の穴からは天井が見えて肉や骨が付着していた。


 町長の目から生気が抜け、ぐらりと夕姫の上に崩れ落ちてくる。


 家の中は静まり返っている。いま起こったことがあまりにも常軌を逸していたため、全員が思考停止に陥っていた。やがて我に返って理解が追いついた者から顔が恐怖に染まり、夕姫を見る目が変わっていく。


 突き飛ばすだけのつもりだった。人がこんなにも壊れやすいなんて知らなかった。


 そこから先のことはほとんど覚えていない。両親を助けてここから逃げなくては。ただそれだけを考えて必死だった。


 覚えているのは、恐怖に歪んだみんなの顔と、涙を流して謝罪を繰り返す父と母の顔。


 どうしてこうなってしまったのか。何がいけなかったのか。ずっと考えた。何度も考えた。


 答えは簡単だった。



「転生体って、人に教えちゃいけないことなんだね……」







 ずっとこの不安を拭い切れずにいた。


 知られることが怖かった。あの化け物を見るような目が恐ろしかった。大好きだった人たちにそんな目で見られることが耐えられなかった。


 また同じ目に遭いたくなかった。だから誰にも知られないようにしていた。


 輝に、あの目を向けられたくなかった。だから転生体の話を拒絶していた。



「そんな顔するな」



 半分しか開いてない目で輝はそんなことを言った。いつも見せてくれる優しい眼差し。



「夕姫が転生体だってことは、学校に通ってたときから知ってる」


「え?」



 そうか。夕姫は知らなかったのか。



「転生体保護機関『ティル・ナ・ノーグ』が『アルカディア』にいる転生体を把握していないわけがないだろ。そして俺は『ティル・ナ・ノーグ』と専属契約してる狩人だ。傍にいる夕姫が転生体だってことはずっと前から知ってたよ」


「ちょっと待って! じゃあ、輝くんは私のことを知ってて――」



 ずっと友達でいてくれたの?


 声にならない問いかけに輝は頷いて見せる。


 それがわかった途端、全身から力が抜けてぺたりとその場にへたり込んでしまった。視界がじわりと滲み、気づけばはらはらと涙が溢れていた。



「あ、あれ?」



 慌てて涙を拭う。しかし拭っても拭ってもとめどなく溢れてきて止まらない。


 輝の小さなため息が聞こえると、そっと頭に手を添えられてそのまま抱き寄せられた。触れた箇所から伝わる温もりがとても心地良い。



「夕姫が転生体の話を嫌う理由はそれだったんだな。気づいてやれなくてすまなかった。けど俺の前ではそんな必要はない。俺は転生体とか関係なく、夕姫のことが好きなんだからな」


「――――――――っ!?」



 生涯で一番嬉しい言葉だった。認めてもらえた。受け入れてもらえた。こんな自分を好きと言ってくれた。ここに居て良いと、傍に居て良いと言ってくれた。


 心が溶けていく。涙が止まらない。言葉を紡ごうとしても嗚咽にしかならなかった。


 そんな夕姫を輝は抱きしめ続ける。


 いつの間にか周囲は静かになっていた。夕姫たちを敵視していた狩人たちは泣きじゃくる少女の姿を見て敵意を薄れさせていく。


 『アルカディア』は理想郷。清も濁も併せ飲む。それができるのは理解しようとし、共存しようと歩み寄る者が多いからだ。


 此処に来てよかったと、輝に出会えてよかったと、心の底から思うことができた。

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