自由への渇望②

 司令部にいた夕姫はその最悪の光景を目の当たりにした。


 多くの人たちの守りを蹴散らして、あっさりと都市に足を踏み入れた魔獣。戴天たいてんに届く咆哮はまるで懸命に生きる人たちの頑張りを嘲笑っているかのよう。


 最悪の事態は誰もが想像していた。もしかしたらこうなるのかもしれない。夕姫自身もその可能性を危惧していた。


 だけどそれがどういうことか本当の意味で理解していなかった。



「退避しろーっ!」



 司令部の誰かが叫んだ。夕姫にはそれがどこか遠くからの声のように聞こえた。



「……魔獣」



 この『アルカディア』で暮らすようになって、久しく目にしていなかった異形の生物。


 大量の魔力素マナを取り込んだ動物の突然変異種。凶暴で凶悪でいろんなものを傷つける怖い生き物。


 あんなモノを相手に輝たちは戦っている。



「君っ、何をしてる! 早くここから離れるんだ!」



 立ち尽くす夕姫の手を誰かが引っ張った。腕を引かれながらも、視線は引き剥がせない。



法則制御ルール・ディファイン――魔力圧縮・一点解放ソード・オブ・ザ・ハート!」



 輝の声が聞こえた。蒼の光が迸り、魔獣の顔面を撃ち抜いてその巨体を押し返す。


 一瞬だけ輝と目が合う。逃げろ。それが伝わってきた。



「俺が魔獣を引きつける! みんなは足を狙ってくれ!」



 輝の指示に狩人たちが応える。


 それはダメ。逃げるなら一緒に。そう思っても舌が強張って声が出ない。


 手を引かれて魔獣から離れる。その場にいた誰もが事態の深刻さにパニック寸前になりながらも、それぞれが自分の意思で懸命に動いていた。


 自分は何もできない。すくんで声を出すこともできなかった。輝の力になることも、自分の身を守るために動くことも、何もできていない。


 世界には恐ろしい魔獣が蔓延っている。生きるためには身を守る力とそれを使う意思が必須だった。


 だけど『アルカディア』での生活では不要だった。魔獣からは狩人や『ティル・ナ・ノーグ』が守ってくれている。あの高い壁が外からの侵入を阻んでくれている。


 誰かが守ってくれて能天気に笑っていられたこの場所は、間違いなく理想郷なのだといまさらに実感した。


 アレは元が何の生物だったのか。恐竜のように巨大な獣。それが腕を、尾を、角を振るう度に、建物が弾け飛び、地面が抉れ、人が吹き飛ばされる。破壊の足跡は徐々にゲートから伸びている。進撃を阻むべく全員がゲート付近で押し留めようとしているが、じわじわと押し込まれていた。


 一人、また一人と倒れていく。赤い血が飛び散る。傷を負った人、悲鳴を上げる人、苦痛に呻く人、叫びと共に武器を振るう人、それを援護する人。


 誰もが傷つきながら、この世の理不尽に抗っている。


 呼吸が止まる。そうだ。これがこの世界の姿だ。


 一際強い光が弾けた。蒼色の閃光。その一撃を受けた魔獣がよろけて僅かに後退した。



「輝くんっ」



 何度も背中を振り返る。遠退きながらも夕姫の目は輝の姿をはっきりと捉えていた。


 自分より何十倍も大きな魔獣の前に立ち、機械仕掛けの大鎌を手にして魔獣の注意を引いている。


 振り下ろされる剛腕を、輝は障壁を張って辛くもかわし続けている。輝に注意が向いている隙に周囲の人たちが魔獣に向けて集中砲火。魔獣の狙いが輝から外れると、再び蒼色の閃光が魔獣を打ち据えて輝が狙われる。


 何度もそれを繰り返す。強大な暴力が輝に向けられる度に夕姫は気が気でなかった。


 輝は真っ赤だった。白いシャツや包帯は赤い染みをいくつも作っており、彼の立っていた場所には必ず紅い斑点が残されている。時折、膝をつきそうになり、機械鎌を杖にして身体を支えていた。


 誰が見ても満身創痍。もう限界のはずだ。もう動けないはずだ。しかし輝は止まらない。最も苦しいはずなのに、最も危険な役割を勤めている。


 後ろへ下がるように周囲の人たちが呼びかけているが、輝は全く聞かずに魔獣の前に立ち続けていた。


 その姿を見て、夕姫は胸が締めつけられた。


 もういい。もうやめてほしい。このままでは死んでしまう。そんなことになっては耐えられない。


 蒼色の閃光が弾ける。幾度と繰り返された攻撃に痺れを切らしたのか、魔獣が輝を集中的に狙い始めた。腕を振るい、尾を薙ぎ払い、角を振り回し、輝に暴力の嵐が降りかかる。


 すでに自力で立つこともままならない輝は障壁を多重に展開して凌ぐしかなかった。しかしその嵐を耐えるには障壁の傘だけでは足りなかった。


 ガラスを砕くような音が何度も響く。破滅の音。多重に張られた障壁は瞬く間に粉砕され、大樹のように太い腕が輝を殴りつけた。


 蹴飛ばされた小石のように輝は弾き飛ばされ、何度も地面を跳ねながらようやく停止した。


 立ち上がらない。指の一本すらピクリとも動かない。生きているかどうかもわからない。


 それでも魔獣は輝へ向かい続ける。輝の身体がただの肉塊に変り果てるまで、この暴力は止まらない。



「輝くんっ!」



 自然と身体が動いていた。引かれていた手を振り解き、来た道を駆け戻る。その一歩一歩が地面を踏み砕き、音に迫る勢いで疾駆する。


 青白く輝く刻印を全身に纏って。

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