遠く夢見たもの④


 唐突に景色が移り変わった。


 見覚えのない部屋。薄緑色の世界が広がっている。水中にいるかのような浮遊感を覚えて、薄緑の液体で満たされた容器の中で漂っているのだと気づく。水中なのに呼吸ができるのは酸素吸入器に繋がれているからのようだ。


 自分の置かれている状況がわからない。しかし裸に剥かれ、よくわからない機器に繋がれ、水槽のようなものに収容されている。


 たったいま夢に見ていたものがフラッシュバックした。それをきっかけに忘れ去りたい過去の記憶が一気に噴出する。


 冷静さを欠くにはそれで十分だった。


 神名が強い光を放った。白銀の弓刃が顕現し、衝動のままそれを振るう。水槽は大きな音を立ててあっけなく壊れ、薄緑色の液体と一緒に外へと押し流された。



(嫌な夢を見たね。大丈夫、アルフェリカ?)



 頭の中に女神の声が響く。おかげで幾分かは冷静さを取り戻すことができた。【白銀の断罪弓刃】パルティラの召喚を解いて室内を観察する。



「……こ、こは?」


(さぁ? アルフェリカが寝てる時は私も寝てるからね)


「……そう」



 濡れた身体が外気にさらされてブルリと震えた。寒いのは濡れたからか、それとも夢のせいか。


 白い部屋。壁も天井も床も真っ白。目の前には部屋を仕切っている白色のカーテン。


 その向こう側には人の気配。


 水槽を壊した音を聞きつけたらしく二人の人物が血相を変えて姿を現した。


 一人は銀髪と色違いの瞳オッドアイの少女。もう一人は白髪蒼眼の青年。



「近づかないでっ!」



 突然現れた二人をとっさに拒絶する。近づこうとした少女はそれで足を止めた。



(大丈夫だよ、アルフェリカ。少なくともその男はね)



 いままで聞いたことのない穏やかな声。しかしそんなことは警戒を解く理由にならない。



「落ち着いてください。私たちはあなたに危害を加えるつもりはありません」



 言葉に嘘はなかった。しかし警戒を解くことはしなかった。今その気がなくてもこの先はわからない。自分の正体を知った途端に手のひらを返すに決まっている。


 こちらの警戒を察してなお少女は語りかけてくる。



「私は転生体保護機関『ティル・ナ・ノーグ』所属のシール=ヴァーリシュ。彼は我々と専属契約をしている狩人の黒神輝です。先の戦闘で負傷したあなたを保護させていただきました」


「戦闘? 保護?」


「現れた敵性覚醒体がゲートを破壊したのです。あれはこの都市を魔獣から守る防壁。それが破壊されたことはすなわち都市の存亡に関わる事態です。ですが、あなたは敵性覚醒体と戦いながら都市に近づく魔獣を狩り、輝と共に敵性覚醒体を討ったと報告を受けています。しかしその最中で重傷を負って行動不能となり、魔獣に食い殺されそうになっていたそうです。傷が酷かったため我々の施設で治療を行なっていました。それがあなたがここにいる経緯です」



 やはり嘘は感じ取れなかった。こちらを陥れようという悪意も感じない。



「……そんなことをした覚えはあたしにない」


「ですが事実です。あなたは『アルカディア』の恩人。あなたが身をていしてくれたことによって、大きな被害をまぬがれました。改めてお礼を申し上げます」



 シールはうやうやしく頭を垂れて謝意を示す。不気味で仕方がない。何か裏があるのではないか。述べられた言葉が真実だとわかっていても、どうしてもそう疑ってしまう。



「アル、フィー……?」



 ずっと沈黙を貫いていた青年――輝が呟いた。その表情はまるで目にしたものが信じられないとでもいうようだった。



「気安く愛称で呼ばないで。っていうかなんでそれを知ってるわけ?」



 問うと、輝は何かを振り払うかのように首を横に振った。



「すまない。古い知人にあまりにも似ていたから。名前を聞いても良いか?」


「……アルフェリカ=オリュンシア」


「アルフェリカ。あんたが覚醒体だっていうのはもうとっくにわかってる。それを理由に悪く扱うことはしない。だからそこまで警戒する必要はない」


「っ!?」



 アルフェリカは目を見開いた。転生体は万人に排斥され、覚醒体は万人に忌避される。それが世の常。道端で野垂れ死ぬことを望まれる世界の忌み子。


 知った上でなお死の間際にあった自分を生かした。


 その行いがただの善意であるはずがない。



「あたしを、どうするつもり?」



 湧き上がってくる恐怖に声が震えそうになる。弱みを見せるな。弱みを見せれば何をされるかわからない。また、あの悪夢の日々が繰り返されるかもしれない。



「この都市で悪さをしないならどうもしない。あんたの中の神がこの都市を守ってくれたのは事実だからな。ある程度の制限がつくだろうけど、基本的に好きにしてればいい」



 言葉の真偽を測ろうと輝の目を見つめたと同時にアルフェリカの呼吸が止まった。


 どす黒く濁りきった汚泥のような色。おおよそ人の許容量をはるかに超えた醜悪な香り。


 あまりの気持ち悪さに左手が勝手に口元を押さえる。せり上がってきた吐き気を飲み込むだけで精一杯だった。


 いきなり崩折れたことによって輝が駆け寄ろうとする。



「来ないでっ!」



 反射的に【白銀の断罪弓刃】パルティラを召喚し、本気で斬るつもりで振るった。


 咄嗟に後退して刃の間合いから逃れた輝はアルフェリカの持つ弓に釘付けになった。



【白銀の断罪弓刃】パルティラ……まさかあんたに宿っているのは――」


「黙って!」



 そんなことに構いもせず、吐き気を堪えながら明確な敵意を輝に向けた。



「キミ、どれだけの人を殺したの?」



 その問いに輝の目の色が変わった。様々な感情が複雑に混ざり合っていたが、表情に浮き出ていたのは驚き。



「キミたちの言ってることに嘘はない。けど、人殺しのことなんて信用できないわ」



 この男は駄目だ。気持ち悪い。おぞましい。これだけの罪を犯した者が生きていていいはずがない。殺さなければ。その罪を裁かなければならない。この大地を貪る絶対悪の種族である人間の生を赦して良いと思えるほどに、この存在はこの大地に在ってはならない。


 輝を見ているだけで理性が溶解して黒い衝動に頭が塗り潰されていく。


 この男を殺す。その衝動に疑問を持つことも、ましてや抗おうとも思わなかった。


 首を落とそうと白刃を閃めかせる。



【飢える生命】ファームスレーベン!」



 シールの叫びに応じ、虚空から顕れたのは黒鉄の鎖。刀身が輝の肌に触れる直前、それを持つ右腕に巻きついて刃を止めた。


 即座に【白銀の断罪弓刃】パルティラを双剣に。左腕の刃で首を狙う。しかしそれも唐突に顕れた鎖に絡め取られて届かない。



「都市を救ってくれた恩人ではありますが、輝に危害を加えるのであれば容赦はしません」



 四方八方から鎖が伸びてくる。腕を、脚を、胴を、首を、あらゆる人体の可動部を縛りつけて自由を奪った。



「くぁっ」



 拘束された四肢が強力な力で引っ張られて空中にはりつけにされてしまう。両の手首を締め上げられ、取りこぼした双剣が床に落ちる。神の力を行使して鎖を引き千切ろうとしても、金属が擦れ合う音が虚しく鳴るだけだった。


 抵抗できない。そう自覚した途端、感情が反転した。押し込められていた恐怖が一気に心を染め上げる。



「い、いや……」



 全身から血の気が引いていく。指先の感覚はなくなり、目の焦点が定まらない。身体は小刻みに震えて奥歯がカチカチと音を鳴らした。



(アルフェリカ! 落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だから!)



 必死な声が頭に響く。しかしそれを認識する余裕はアルフェリカにはなかった。


 心身に刻まれた悪夢が蘇る。それがまた繰り返されると想像しただけで、アルフェリカの虚勢はあっけなく崩壊した。



「や、めて……お願い……やだ、助けて……」



 ぼろぼろと涙が溢れた。恥も外聞もないみっともない姿をさらしながら、助けを懇願することしかできなかった。


 輝とシールはその怯え様に言葉をなくして、互いに顔を見合わせた。



(大丈夫、あとは私に任せて)



 身体を神名の刻印が覆い尽くす。肉体の主導権が入れ替わり、自分の意識が深く沈んでいった。



「――久しぶりだね、ヒカル」


「エクセキュア、なのか……?」


「そうだよ」



 落涙の痕を残した顔でエクセキュアは少し困ったように微笑んだ。


 その肯定に輝は一瞬だけ目を見開いた後、いたたまれない表情で目を伏せた。



「シール、大丈夫だ。解放してやってくれ」


「わかりました」



 疑問を挟むことなくシールは鎖の召喚を解いた。


 解放されたエクセキュアは輝へと歩み寄り――。


 平手で輝の頬を打った。



「輝!?」



 再びシールがエクセキュアを拘束しようとしたが輝はそれを手で制する。



「どうして叩いたか、わかるよね?」


「ああ」



 ずっと昔の話。今日まで後悔し続けて、黒神輝が誓いを抱くことになった出来事。



「ヒカルは、アルフィーを見捨てた」


「ああ」


「私はアルフィーを助けてほしかった」


「ああ」


「あの子の最期の願いすら、叶えてあげなかった」


「……ああ」



 ヒカルは何も言い返さない。


 本当はわかっている。ヒカルの気持ちも。あの子の気持ちも。


 ヒカルを責める理不尽さも、自分に責める資格がないこともわかっている。


 それでも言わずにはいられなかった。



「私はっ! あの子を選んでほしかった! 名前も知らない他人よりも、ヒカルが愛したアルフィーを選んでほしかった! なのに、なのにヒカルは知らない誰かのために悩んで、アルフィーが殺されるのを黙って見てた! 私はどうしてもそれが許せなかった!」



 あの子はヒカルを殺したくなかった。だから殺してほしかった。


 あの子はヒカルと一緒にいたかった。だから死にたくなかった。


 そう願ってあの子は死んでいった。


 ヒカルではない、別の存在に殺された。


 感情が昂ぶって涙が溢れ出る。死にゆく間際のアルフィーの気持ちを知っているからこそ、彼女の無念を思うと胸が張り裂けそうに痛む。



「なんとなくですが事情は察しました」



 沈黙が漂い始めたとき、パンッとシールが手を叩いた。



「ちゃんと話し合いをしましょうか」


 そんな提案がされた。

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