遠く夢見たもの②
懐かしき夢は終わり、少しずつ浮上していく意識の中でバタバタと忙しない足音が聞こえた。
やけに重たい瞼を開けると飛び込んできた白い光に呻く。
光に目が慣れてくるとまず初めに見えたのは白い天井だった。
「輝!?」
誰かが名前を叫ぶ声が聞こえた。声がした方へ顔を傾けると、白いドレスを纏った小さな少女がベッドの脇まで飛んでくる。身を乗り出す少女の顔が視界いっぱいに映り込んだ。
こちらを覗き込む青と金の
「……シール」
「はい。輝、無事でよかったです」
シール=ヴァーリシュ。彼女の名前を呼ぶと小さな手でそっと頬を包み込まれる。
ひんやりと少し冷たい。
「
身体を起こそうとして激しい痛みに顔を歪めた。じくじくと背中が酷く熱い。
「まだ起きてはいけません。治療をした神崎は命に別状はないと言っていましたが、それでも重傷だったのですから」
「治療……? ――――っ!?」
目覚める前のことをすべて思い出し、輝はシールの細い肩に摑みかかる。
「敵性覚醒体はどうなった!? 狩人のみんなはどうなった!? 都市は無事なのか!?」
「落ち着いてください、輝。ちゃんと説明しますから」
シールは肩を掴む輝の手に自身の手を添えた。冷静さを失っていたことを自覚し、彼女の肩から手を放す。
「まず都市内部には魔獣による被害は発生していません。ゲートは破壊されてしまいましたが、狩人たちの奮闘で魔獣の侵入は許していません。今は部隊を派遣してゲート周辺の警戒にあたらせています。ゲートが復旧するまでは我々と狩人が合同で警備する手筈になっています。今回の負傷者はすべて治療施設に収容済みです。もちろん輝も含めて。なので輝が心配するようなことは何も起こってはいません。安心してください」
「敵性覚醒体は?」
「輝が戦った敵性覚醒体は死亡しました。転生体や覚醒体が死亡したときに生じる高純度の
ゲートの破壊も覚醒体の襲撃も、どちらも都市の存続を揺るがしかねない大事件だ。下手をすれば何千何万という死傷者が出ていたかもしれない。
それがないということがわかって少しだけ気が軽くなった。
しかし心はそれで良しとはしなかった。
「何人、死んだ?」
被害が全くなかったわけではないはずだ。
荒れ狂う雷に紛れた悲鳴の数々。人間が黒炭に変わった凄惨な光景を確かに覚えている。
シールは言うか言うまいか
こちらは引くつもりはない。彼女もそれがわかっているのか、やがてゆっくりと口を開いた。
「死者二四名。重軽傷者一四三名。うち重体者八九名。これが今回の被害です」
覚悟はしていた。それでも告げられた数字は衝撃を伴って心を揺さぶった。それだけの数の命を取りこぼしてしまった。
「ですが輝、あなたに非はありません。元はと言えば守護者不在の時間を作ってしまった我々の失態です。それに敵性覚醒体の襲撃。ゲートの破壊。もっと多くの犠牲者が出てもおかしくありませんでした。そんな危機的状況で被害をこれだけ抑えられたのは、輝が敵性覚醒体を押し留めていたことが大きい。ですから自分を責めたりしないでください」
「わかってる」
「そんな顔して言われても、信じられませんよ?」
どのような顔をしているのかは自分ではわからない。だがシールに気取られるくらいにはひどい顔をしているのだろう。
彼女の言う通り、自責したところで意味はない。後悔ばかりしていても犠牲になった者たちは帰ってこない。ずっと昔からわかっていることだ。
「……あの娘はどうした? 俺と一緒にもう一人いたはずだ」
「もう一人の覚醒体ですね。あの方は傷が酷かったので治療ポッドに入っています。覚醒体の治癒力もあるので、おそらく朝までには目を覚ますだろうというのが神崎の見立てです。……あ、治療ポッドはその仕切りの裏にありますが、決して覗いてはいけませんからねっ!」
部屋の区画を分けるように掛けられた白いカーテンをじっと見ていると、腰に手を当てながら頬を膨らませたシールに釘を刺された。
「そういうつもりじゃない。ただ……」
あの少女が覚醒体であることをシールはもう知っている。
「彼女については報告を受けています。聞く限りは友好覚醒体でしょう。直接話してみてから判断しますが悪いようにはしません。転生体保護機関『ティル・ナ・ノーグ』の幹部として約束します」
こちらの不安を察したシールは力強く胸を叩いた。
齢十四で一つの組織の幹部と言われて、何も知らない
シール=ヴァーリシュ。年齢にそぐわない
青の右目は【破戒の魔眼】。消費した魔力量に応じて視界に収めた術式を解呪する。
金の左目は【遠見の魔眼】。時間と場所を超えて最も実現性が高い未来を幻視する。
この二つの魔眼を持つことからシールは
それでも左目の力は絶大だ。魔獣や転生体・覚醒体と関わることが多い都市防衛だが、シールは類い
積み上げられた実績は絶大な信頼となっている。特に
本当に大したものだと感心するしかない。
「ところで輝。今回の戦闘で
唐突なシールの問い。その語気には非難の色が多分に含まれている。
魔術
それらすべての情報を引き出せるとなれば、その価値は計り知れない。
しかし――
「世界の知識を脳に押し込めばあっという間に破裂してしまいます。輝だから耐えられているのでしょうが、異常が出ないとも限らないのです。最悪、自我を失う可能性もあるのですよ?」
もう何度目かもわからないシールの忠告。
脳の記憶容量は膨大だが、世界に刻まれた情報量に比べたら微々たるもの。風船に入り切らない量の水を入れたら破裂するのと同じ。
「自我崩壊の前に気絶するからそこまでいかないよ」
「戦闘中に気を失ったらそれこそ命を落とします。それに気絶するのは人体の防衛機構です。それを無理やり止めてしまうなんて、戦闘中に気絶するよりよっぽどタチが悪いです」
シールは額を手で覆って大きなため息をついた。
生物の体とはよくできているもので、流れ込む情報が許容量を超えたとき脳が一時的に機能を停止して意識を断つ。意識がなければ情報がシャットアウトされるため自我崩壊は防がれるというわけだ。
それを止める危険性は理解している。
「だいたい、その魔術で引き出した知識は記憶に残りません。一時の効果のために命を賭けるなどリスクに見合ってませんよ。そんな魔術なんかに頼らなくても〝神殺し〟の力なら――」
〝神殺し〟。
その単語を耳にした瞬間、全身の血液が煮え
「俺の名前は黒神輝だ。それ以外の呼び方をするな」
声が響き、部屋の空気が凍てついた。
殺意に等しい感情が込められた双眸に射抜かれて、シールは表情を青くする。指の一本も動かせなくなり、
それを見て我に返る。自分のしたことに激しい後悔が生まれた。
「仲間に向ける感情じゃなかった。悪い」
「……い、いえ、私の失言です。申し訳ありません」
こんな幼い少女に頭を下げさせる。そんな自分があまりにも度し難かった。
気まずい沈黙に支配される室内に、不意に電子機器の音が鳴り響いた。
二人とも反射的に音源の方へ顔を向ける。鳴っていたのは台の上に置かれている輝の携帯端末。すぐに音は止まり、再び部屋の中に静寂が訪れる。
「メ、メールみたいですよ?」
「悪いな」
礼か謝罪か、自分でもどちらかわからない言葉を吐き、シールが取ってきてくれた携帯端末を受け取る。履歴を見てみると夕姫の名前で埋め尽くされていた。
「もうこんな時間か」
時刻は午前二時を過ぎていた。夕姫からのメールを確認する。文面を見ただけで胸が痛い。
よほど心配をかけているらしい。無事を知らせるためにも返信はしておくべきだろう。
「輝、まだこのような無茶を続けるのですか」
メールを打とうとしたとき、シールがおずおずとそんなことを訊いてきた。
その意味を理解した輝は即答する。
「愚問だな」
輝はシミひとつない白い天井を見上げた。ずっと遠くにあるものを幻視して睨みつける。
「俺は人間に敵対する神を赦さない。
「殺してしまった人よりもより多くの人を救う。もう涙を流す人がいなくなるように」
「そうだ」
黒神輝が己に刻んだ誓い。それを成すためだけに自分はこうして生きている。
「あなたの誓いは知っているつもりですが、人類に敵対する神々を全て滅ぼすなど……」
誓いを果たす手段が神を滅ぼすこと。
それは実質不可能だ。神など概念の数だけ存在する。総数すら定かではない。その全てを葬るなど永遠という時間があっても足りない。
「現実的じゃないのはわかっている。俺の目で見えるところ、俺の耳で聞こえるところがせいぜいだ。シールたちのおかげで手の届く範囲は広くなったし感謝してる」
「それはあなたが無茶を繰り返すからです。もっと堅実にやる方法があるのに、あなたは頑なにそれをしようとしない。我々が手を貸さなければあなたは
「だろうな」
「言って聞くような方でないのはもうわかっていますからね。あまり強くは言いません。ですが、あなたを心配する人たちがいることは忘れないでください」
「わかってるよ」
「わかってないから言っているのです」
「悪い。けどやっぱり譲れないんだ」
輝が申し訳なさそうに笑いながら、シールの絹のように柔らかい髪を撫でると、それだけで彼女は頬を朱に染めた。
「ま、まったくっ。仕方のない人ですね輝は。仕方がないので、引き続き私が力になってあげます。仕方なく、ですよ? あなたの無茶を認めるわけじゃありませんからね?」
「苦労をかけるな」
「まったくです。出会った時に比べて柔らかくなったと思いましたが、根っこの部分は変わっていませんね。勝手なままです」
「そう簡単には変われないよ」
いいえ、とシールは首を横に振った。
「変われたところもありますよ。自然に笑うようになりました。それは初めて出会った頃の輝では考えられません…………私を子ども扱いするところは全然変わりませんけど。そう! 全然! 変わりませんけどっ!」
態度に出しているつもりはなかったがシールには見抜かれているのかもしれない。こうして頭を撫でるのも子供扱いになるんだろうなと思いって彼女の髪に触れていた手を離す。
シールが若干名残惜しそうな顔をした気がした。
少しだけ心が軽くなった。おそらくシールの気遣いを感じたからだろう。まだ幼いというのに、出会った時から彼女には貸しを作りっぱなしだ。
「話が戻りますが、彼女の身柄は『ティル・ナ・ノーグ』で預かります。敵性なしと判断できれば『アルカディア』での自由はある程度まで保障します。可能であれば味方に引き込みたいです。話し合いには輝も同席してください。見知った顔があれば彼女も少しは警戒せずに済むでしょう」
「了解した。その時に連絡をくれ」
「ありがとうございます」
にっこりとシールは微笑んだ。
話に区切りがつき、先ほど中断したメールを打とうと携帯端末に視線を落とした時、何かが割れる音が室内に響いた。
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